芦塚陽二の闘病記 (第三の選択)






                 

    2017年の9月20日から、yahooの突然のProvider事業からの撤退で、 開かなくなっていた「芦塚陽二の闘病記」を、2019年の7月23日に、 新しいrental-serverと契約を新たにして、homepageを再開しました。 しかし、homepageを書くにあたっては、体調との相談になってしまい、 renewalには時間が掛かると思われますので、今暫らくご猶予を お願い致します。


                        index

 
indexのPageはこのPageなので、クリックしても、どこにもlinkはしていません。
 通常なら、indexのページを独立して作ると思いますが、indexとは言っても、そんなに大量にあるわけではないので、トップページの中にindexを放り込んでおきました。
ホームページを制作し始めた最初の内は、このページ自体がindexのページのつもりだったので、特にindexのページは作らなかったのです。
しかし、しかし・・・・。
ホームページは、書き溜めて行ってしまうので、だんだん、文章が長くなってしまいます。
このページも、段々長くなって来たので、探すのに手間がかからないように、上のボタンをクリックすると直接、indexの栞に飛ぶようにしました。
indexのページの文章が長くなって来て、付録のページが遠くになってしまいましたので、付録のページにも、直接飛べるように、indexの栞(しおり)を新たに付け加えました。

 病床記   (本文では闘病記となっていますが、病床記のindexのページです。)
この病床記というサイト自体は本来は、このindexと全くダブってしまいます。
つまり、最初は、topPageの、ここのindexの部分は無かったのです。topPageから、この病床記(闘病記)に入って、それぞれの病気の経験話にリンクさせていました。
何時もの通り、面倒臭がり屋の私は、ついついtopPageからいきなり本文に入れるようにしてしまったので、基本的にはこの病床記(闘病記)は要らないPageになってしまいました。
しかし、今度は、topPageが段々膨大なPageになってしまいました。
・・・という事で、今度はtopPageからindexを抜いて、少し軽くする事も考えています。
 1.高校時代   (高校時代に大学病院に腎臓結核で入院した時のお話です。その時の病床日誌に対して、その内容の説明と補足解説を少し付け加えておきました。
2013年2月10日更新
 2.作曲科の職業病    音楽大学入学と時を同じくして、胃潰瘍と十二指腸潰瘍に掛かって、入退院を繰り返す事になってしまいました。その事を大学の日本人の作曲科の先生に話したら、「胃潰瘍は作曲家の職業病だよ!」と言われてしまいました。そして30年後のピロリ菌の治療まで、胃潰瘍は再発を繰り返します。
 ピロリ菌  腰痛が酷くなってしまって、人生始めて救急車を呼んで、兄貴の友人で、子供を教えに行っていた、牧野先生のbyteしていた病院の紹介で江古田の教室のすぐ傍の病院に入院しました。全く動けない状態でICUに1週間程いました。その病院での胃の検査で当時、先端の医療だったピロリ菌の対処の注射をしました。その病院で大腸カメラをやったのですが、全麻でやったので、尾てい骨を動かされてしまい、その後、尾骨の痛みに長年悩まされる事になります。
 3.鬱とEDについて  (内容的に特別に変更はないのですが、分かりにくい所や、補足説明が必要な所を少し手直ししておきました。2013年2月12日補足説明
 4.全ては肥満から始まった   (肥満と糖尿病 追記2008年11月22日追記
2016年10月の5日ホンの少し、便秘についての項目を追記しました。
 5.腰痛日誌  腰痛でS病院に入院したのは今を遡ること 1998年(平成10年)の7月のことであった。

この年の1月には、経理をやっていた共同経営者の丼勘定と乱脈経営で事実上教室を倒産させて、発表会費用や銀行に残った残金も全部引き出して、経理のノートを持って、教室のハンコも持ったままで、田舎に逃げ帰ってしまいます。
本当は、丼勘定で経理がめちゃくちゃになっているのは私も分かっていたので、何度か「経理を代わってやるから」と、言ったのですが、経理だけは代わりたくなかったようです。変わってしまうと、それまでの乱脈経営が一瞬でバレてしまうからね。

税理士の先生や銀行は、警察に届けるようにadviceをしてくれたのですが、20年近く一緒に教室を切り盛りしてくれた人なので、警察沙汰にするのは忍びないという事で、私が銀行に頼んで、ハンコの紛失という事で、何とか収めて貰いました。

その時点で、すっかり、生徒も少なくなったので、私としては、これを機会に、教室を閉鎖しようかな? とも思ったのですが、教室で育った先生達にその旨を伝えると、若い先生達は「芦塚音楽教室教室をこのまま存続させて、自分達で経営して行きたい」という希望だったので、以前の先生が乱脈経営で、残った僅かな金すら、持ち逃げされて、すっかり無くなってしまった資本金ですが、もう一度、私がその全額を準備して、教室を再稼働する事にしました。

また、少子化で生徒が少なくなった朝日ヶ丘教室を閉鎖して、倉庫替わりの花園教室の傍の宿泊施設を閉鎖して、教室用に買い揃えて来た多くの備品を処分しました。

そうして、やっと半年も経って、教室の経営もやっと軌道に乗ってきた(先が見えてきた)頃に、それまでのオーバーワークが祟っての腰痛です。
勿論、私の腰痛の根本的な原因は、そういった精神的なストレスと疲労でした。

でも、この腰痛日誌の本文の中のお話は、そういった個人的な愚痴話とは関係なく、病院での体験に於ける入院生活上の看護への不平不満のお話だけにしてあります。
 6.第三の選択  2005年平成17年の8月2日に冠動脈のバイパス手術をしました。

でも、私が自分の不定愁訴を冠動脈を疑って、そのcheckをお願いしたのは、それよりも、5年も6年も前の、2000年になる前の頃の話です。

しかし、病院でその話を幾らしても、「素人が何言っているの!?」と循環器の先生達には一笑にふされてしまいました。

その後、やはり、私が「不整脈が出ているから・・!」と言って、何度も何度も、病院での検査を要求して、その内に、(5年以上も経って、)やっと病院での心電図の検査に引っ掛かって、カテーテル検査に行く日にちが決まったのは、私が心臓の不整脈や冠動脈の話を医者に言い出してから、既に、5年後、6年後の話です。

今度は、手のひらを返したように、「よく、これまで生きていたね。あなたの心臓が強かったから、何とか生きて来られたので、普通なら5年も、6年も前に死んでいてもおかしくはなかったのですよ。」と言う医者に、「私も、5年も、6年も前から、『冠動脈だ!』といいつづけていたのですがね。」「そこまで分からんものかね?」と、言ったら、「そこまで分からんのですよ。」と言われてしまいました。

21世紀になっても、その程度のものかね??・・・医学の発展は・・・??
 7.その後 1  その後とは、2008年の5月09日以降のメールを集めたもので、2005年の8月2日に、心臓のバイパス手術をした大和成和病院が、江古田からの通院には余りにも遠距離過ぎるので、担当の先生に近くの総合病院に通院するようにアドバイスされて、紹介状を貰って、練馬高野台にある大学病院病院に通い始めた所からが、「その後」の話になります。

つまり平成17年に受けた、心臓のバイパス手術以降のメールのやり取りのお話です。

江古田の私の住いからは、大きな病院、・・・つまり、練馬区内にある大学病院は、私が最初にカテーテル検査を行った(今は亡き)日大病院と、順天堂練馬高野台の二つの病院があります。

しかし、日大病院の方は、逃げ出してセカンド・オピニヨンとして、大和成和に行ったので、日大病院に戻る事は、ありえませんよね。

・・・という事で、総合的に体をcheckしてくれるであろう、色々な科のある大きな大学病院という事で、半ば自動的に、順天堂病院に行く事にしました。

その主な理由は、大和成和病院の主治医の先生に「近場の病院を探すように❢」と言われて、ちょうど病院を探していた時に、ちょうど偶然に、順天堂の院長先生医療に対して姿勢のドキュメントをテレビでやっていて、とても感動したからです。

そういった先生がトップにいる大学病院ならば、末端の医者や看護士に至るまで、誠意を持って患者に対してくれるに違いないと思って、その病院への紹介状を書いて貰いました。
しかし、現実は・・・・・、という事で、折に触れて、愚痴を書き連ねて来たものです。


「その後」は、(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)と、そういった病院を転院した経緯が詳しく書かれています。
2005年の8月2日のバイパス手術を終わってから、2012年01月31日迄の愚痴を書いています。

後、「その後」の追記として、近況の日常生活のブログを「鬱日記」として、(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)をこのページに掲載していたのですが、ちょっと場所が違うかな??という事で、欝日記のページにお引越しをさせました。
 その後 2  2018年の6月からは欝が酷くなって、とうとう江古田に新しく出来たばかりの診療内科を訪問しました。
7月からは、10年以上行っていた大野病院を薬局の人のadviceに従って、糖尿病の専門医であるひかりヶ丘の(ひかりヶ丘の日大病院は閉鎖をして、練馬区が経営する総合病院に変わりました。)病院に行く事になりました。
勿論、紹介状を書いて貰ってのお話です。
9月に突然血尿が出たので、慌ててひかりヶ丘の病院に飛び込んで、検査を受けて、膀胱にポリフが出来ているという事で手術が決まったのですが、その時のCTでなんと7cm超の腹部大動脈瘤が見つかって、カテーテルによるステントの手術の予定になってしまいました。
ところがMRIの結果、カテーテル手術は難しいという事で、急遽、開腹手術になってしまいました。
 欝日記へ  ダイレクトに欝日記のサイトに飛びます。
サブタイトルは「愚痴とぼやき」というtitleになっていますが、それこそ此処の所はブログ風のメールのやり取りで、あまり病床記とは関係のない日常のお話ばかりがメインになってしまっているようです。
単なる日常的な愚痴ばかりになってしまっているので、ホームページに掲載する事は心苦しいので、(否、本当に少し、心臓が不整脈なので・・・)これからは、少し、なるべく掲載を控えるようにしようと思っています。
   
  人間、歳を取ると愚痴やボヤキが多くなるものです。
その中でも女性に関するものだけを中心に集めてみました。
   亀甲文字と言うのはご存知のように、ドイツの亀の子文字の事です。
もう、ドイツ人でも亀の子文字を読める人は少なくなりました。
   本来的には「戯れ(ザレ)句」と言うのは、男女のエスプリを描いた「エッチな都都逸」のような句を意味するそうですが、そこまで厳密には、分類していません。私の場合には、単に戯れ(たわむれ)の句と言う意味です。
左のイラストは、私がまだ若かりし頃(とはいっても30歳の頃ですが・・・。)行きつけの飲み屋で酔っ払ってピアノを弾いている所のマンガです!
その飲み屋の、コーディネイトは頼まれて私がしました。
そこの飲み屋で偶然一緒に飲んでいたプロの漫画家の人が描いてくれました。
その場で、偶然知り合った人なので、お名前は失念してしまいました。
ごめんなさい
   
 カノンが死にました。  13年の6月の13日、私の初回のヴァイオリン科の月一lessonの日で、(ピアノ科の月一lessonは、もう2年近く前から始めていますので。)千葉に行って、lessonをしている時の夕方に、canonが死にました。咳き込むようになってから、未だ10日ぐらいしか経っていないのですが、心臓は、結構突然に来ますよね。
   ジーグとは教室のマスコットのシーズー犬です。
男の子です。
勿論、女の子はカノンです。
 原風景  
 桜、桜、桜  
 ヨージーの「女」の法則  
 ヨージーの『忠告」の法則  
 粋筋のお話  
 携帯の話  
 鬱日記  論文のネタ集よりも、もっと日記風ブログ風で、愚痴っぽい「世迷言」を書き連ねたメールを、論文のネタ集と区別するために、「鬱日記」にとしてoutlook上に集めました。

一番古い情報は2007年の1月10日の日付から始まり2008年の11月8日までのグループです。
次のグループは2009年の10月11日に始められて2011年の2月15日までです。
最後のグループは、2012年の3月の5日から2013年の1月19日までがupされています。
一番新しいoutlookに残されていたメール、所謂、世迷言を、少し追記、更新しました。
その前後の鬱日記は、パソコンの調子が悪くて壊れて、メモリーが壊れてしまったので、保存していた鬱日記自体がなくなってしまいました。
・・・という事で、次の日記は、パソコンを修理した後の、鬱日記になりますので、書かれた日にちが少し飛んでしまいます。

「その後」のページに掲載していた鬱日記を、このページに日にち順に、割り込ませました。
その方が日常的に整合性があって分かり易いと思ったからです。
あちこちに鬱日記が散らばってあるのは、どうも面白くなかったので、思い切ってお引越しをしました。
・・・・という事で、2011年からの鬱日記がこのページに記載されます。
   
   仕事でしばらく旅行してから、疲れ切った私が、やっとハイツの自分の部屋に戻ってきて、そこで私を迎えてくれたのは、ほの暗い、それこそ欝になってしまうような、蛍光灯でした。
   私が未だ高校生や音楽大学生の時代には、真面目に日記をつけていました。
とは言っても、几帳面に毎日つけていたわけではありません。寧ろ、小説や詩の「ネタ帳」的な意味合いと、人生論見たいな所謂、雑記帳でした。と言うわけで、私のノートのタイトルは、日記帳としてのタイトルではなく、人生雑感とかのそのままのタイトルである事よりも、「幕妄想」とかの禅語を使用する事が多かったようです。中学生の頃から高校生の時までの雑文を纏めた雑記帳のタイトルが「幕妄想」でした。年頃で、妄想する事も多かったしね??ハッ、ハッ、ハッ!
   
   
   
   
   病院では毎日の生活の時間割りが、実に規則正しく、小うるさく決められているのに、何と時計が部屋にはありません。
勿論、病人が時間を気にするようでは療養にはならないので、時計がないのは当たり前の事ですが「何時までには何処そこに診察に行け!」とか、「検査は何時からだから、それまでには薬を飲んで置くように!」とか、時間には兎に角うるさいのです。
それなのに部屋には、壁掛けの時計すらないのです。
矛盾しています。
という事で、私達患者は自分用の時計を机の上に置いてはいるのですが、患者としては、大部屋では、隣の人に対して、時計の 「時を刻む音」ですら、気を使います。
病人は、聞こえるか、聞こえないかの、ちょっとした音でも神経質になるものですから・・・・。
   
   
   
   ブログのように几帳面に、ではありませんが、折々に思う由無し事を、そこはかとなくパソコンに向かいて書き綴れば・・・・という事で、昔の雑記帳が、単にパソコンに変わっただけなのですが・・・。
私は若い頃から、メモ帳を持ち歩くのが苦手でした。
でも、記憶には結構自信があったので、メモをとらなくても、不都合を感じたことはありませんでした。
ところがやはり、40、50の声を聞くようになると、「ど忘れ」がだんだん始まってきて、今現在は、アルツハイマーの前兆なのか、隣の部屋に物を探しに行って、「あ~っ、これもあった!」と、別の物を持って来た途端に、何しに隣の部屋に入ったのかを思い出せなくなってしまいます。

特に、文章を書いていると、言葉を思い出せなくなってしまっているのに、驚かされます。という事で、若い女の子達に(とはいってもハタチは過ぎているのですが・・・)「help!」とメールを送って、・・・・な時に言う言葉なのだが・・??と、助けを求めるのですが、これが、今の若い子は言葉を知らないから、困ったものです。「えっ?!!そんな言葉があったのですか?」だもんね。

健忘症が酷くなったので、携帯をメモ替わりにして、そのまま自宅のパソコンに送ります。
件名に「買い物メモ」とか、「論文のネタ集」とかを、単語登録しておいて、パソコンのoutlookで自動仕分けをさせます。
忘れなければよいのだから、文章を打つ必要はありません。覚書でもなく、単語の羅列で充分なのです。
もっと私の文章があくどいのは、全てのパソコンに私の使用する常用単語が単語登録してあります。
それで、rbと打つと論文と変換されます。
aで芦塚、yで陽二と変換されるの
です。
この「
です。」という単語は「d。」で変換されます。
だから、パソコンに送る文章は、「12:24cbksxmkasbsbtvsnt」と打ちます。これをパソコンでそのまま変換させると、「12月24日千葉教室 クリスマス会 芦塚先生伴奏 Beethoven sonate」となります。
実はこの文章もそのように単語を変換させながら打っているのです。

左側の写真はKontrabassのlessonの風景です。(コントラバスは大人サイズの2分の1の大きさの楽器です。)
Kontrabassとか、lessonだなんて、打つのは大変そうですよね。しかし、実際には、私はパソコンのキーボードには「kbのlsの風景」としか打っていないのです。
携帯は単語登録はパソコンのようには変換してくれないので、携帯のメールを打つときには、それこそ、「kbのlsのfk」なんて、暗号の様な怪し気なメールを自宅に送っています。
警察が見たら、疑われてしまいそうな、スパイのようなメールです。
ハッ、ハッ、ハッ!
送るメールは、単なる忘備録なので、箇条書きに過ぎません。だから、文章に起こすときに、その単語を補修しながら、ちゃんとした文章に近付けて行きます。
日にちをあまり開けないで、ある程度は訳しておかないと、あまり長期間、日を開けてしまうと、自分にもわからなくなる可能性があるのでね。

という事で、このホームページに掲載されている「論文のネタ集Ⅰ(rbn)」は、反古のような状態ですが、一応、メールで送られて来たそのままの文章では、他の人達には暗号のようなもので、何の事が書いてあるのかさえ分かりませんので、必要最低限は内容説明のための手直しがしてあります。
outlookには、こういった「論文のネタ集」と同様のメモを纏めるfolderが幾つか準備されています。
「ただの覚書」とか、「lessonに関する一時保存」とか、ホームページの素材の為のfolderもあります。
思い付いたネタの文章を携帯でパソコンに送って、仕事の合間に、本の少しでも、暇を見つけては、少しづつ弄って、段々本当の論文に近付けていきます。
この「論文のネタ集」はその過渡期(論文を書く前)の状態の反故になります。
   論文は思いつきでどんどん集めて行くと、その内に結構膨大なPageになってしまいます。
ですから、思い付いた文章を携帯からパソコンに送る時に、最初から第Ⅰ集と第Ⅱ集を作って、個人的な雑談やエッセイ集等を第Ⅰ集へ、音楽関係や教育に関するthemaの反故を第Ⅱ集に集めるようにしていました。
しかし、その内に、いつの間にか、混乱してゴチャゴチャになってしまいました。
その理由は、メモを書く時にはその文章がどちらの分類になるのか、分からないケースが多いからです。
その内に、どちらのZyklus(ぐるーぷ)に、何を書いているのか、どういう分類かも分からなくなってしまいました。
という事で、その次には文字の色で分類を始めました。
その内に、それもだんだんいい加減になってきて・・・・。。
まあ、ただのブログ風の雑文集です。
基本はメモ帳なので・・・ね。
悪しからず・・・!
   以下同文の、ネタ集です。
まだ、完全に貯まった状態ではありませんが、取り敢えずupしておきます。
   
   







homepageの再開にあたって

このhomepageのTitleは「芦塚陽二の闘病記」なのですが、必ずしも、闘病記をuploadしたものではありません。
勿論、高校生の時の左腎の摘出手術から始まって、大学生時代の慢性的な胃潰瘍、35歳を過ぎてからの慢性的な肥満、59歳の時の、冠動脈のバイパス手術等々、それなりの闘病記と言えるだけの闘病の歴史はあります。

しかし、それ以上に、私は、小学生、中学生の頃からの、所謂、生来、生粋のPessimisteで、人生を通じて鬱に苦しめられて来ました。

・・・と言う事で、私に取っての鬱というのは、決して年齢や加齢によるものではありませんでした。
・・・と言う事で、自分の鬱な気分の時に、書き溜めた同しようもない鬱々な日記を、「芦塚陽二の闘病記」として書き溜めていました。

私の文章の作成方法は、mailで自分のaddressにmailを書いて送るという手法で、それを鬱日記として、wordに書き残していたのですが、或る時に(2017年の9月なのですが)、J-comのnetの勧誘があって、「netが光になって速く、しかも、安くなる。」という売り込みがあったのですが、有線光はhomepageのserverも兼ねているので、その旨を言うと、「J-comもnetのserverをしているので、問題はない!」と言う事なので、納得して契約をしました。

しかし、J-comの工事の人が来た時に、J-comでhomepageのserverをやっていたのは、昔の話で、今はやっていません。と言う事を言われて、「無料のRental-serverもあるので、それを申し込んだら・・?」とか言われたのだけど、騙された!感は否めないものがあります。

「芦塚陽二の闘病記」はハイツのProvider契約だったので、「芦塚先生のお部屋」や「芦塚音楽研究所」とは別の契約なので、他のhomepageには関係はありませんが、そう言った理由で「芦塚陽二の闘病記」のhomepageが開かなくなってしまいました。

そう言う事で、やむなく、Facebookに鬱日記まがいの投稿をしていたのですが、それが「教室の宣伝の邪魔になる」との指摘を受けて、しばらくはおとなしくしていたのですが、鬱で癇癪を起こして、おとなしく、慎ましやかに、鬱々のcommentをuploadする事を、差し控える事!!をやめてしまいました。

2019年の3月一杯でyahooがhomepageの事業から撤退する事を受けて、教室の「㈲芦塚音楽研究所」のhomepageと、「芦塚先生のお部屋」のhomepageのserverが無くなってしまったので、やむなく、Rental-serverを申し込む事で、sub、domainも10個近く作れるそうなので、㈲芦塚音楽研究所と「芦塚先生のお部屋」のhomepageをupする次いでに、芦塚陽二の闘病記もrenewalしてuploadする事にしました。
本来的には、Facebookに掲載して来た、鬱日記をこの闘病記にお引越しをさせ無ければならないのですが、時間的にも、体力的にも、今の所は無理なので、暫くはこの状態のままで、ご辛抱ください。
(2019年7月27日)













2017年のメッセージです。
2017年5月27日(土)
2014年の9月の4日から、Facebookを始めました。
homepageよりも公開性が強いので、privateな事は、この闘病記を開いて、ウダウダと書く事になると思っていたのですが、体調不良が続いて、その上に鬱状態に悩まされて、Facebookだけで目いっぱいになって、教室のhomepageや「芦塚先生の部屋」の論文等も書く事がままならなくなってしまいました。
それに日常的な、色々と面倒な役所関係の雑用が、お袋の死と共に押し寄せて来て、半分ぐらいは由起子に丸投げしたのですが、それでも、書面は自署なので、逃げる事が出来ません。
だんだんとドル・プリっ歩の散歩さえ、ままならなくなって来たのですが、人間なんでこんなに面倒くさいのだろうかね??
さて、Facebookの鬱々関係の文章をこの病床記に移す作業をしようと思うのですが、さて、何処に移したものやら‥・・??
2016年迄は、真面目にmailの文章をblogとして、homepageに移していたのだけど、流石に、もうそのエネルギーはないな??
Pageを新しく新設する事にしようかな??



2013年に対してのメッセージ
2012年の後半には、少しは調子が良くなって来たと思っていた心臓パクパクも、此処の処、また再発して来て、何とか、だましだましの生活をしています。
2012年の9月頃から、非常に調子良く効いて、安定していた血圧の薬なのですが、12年の暮れから、突然、今度は薬が効き過ぎるようになってしまい、脈拍数や、血圧も上だけでなく、下も下がり過ぎて、心臓が止まりそうになってしまいました。
慌てて、効き過ぎていると思われる薬を無しにしてみたのですが、今度は、が~んと血圧が上がってしまい、病院で薬を色々と変えて見ているのですが、その後、半年近く、色々と試してはいるのですが、中々、私に合った薬が見つかりません。
歳を取ると、体のありとあらゆる部分がヘタって来るもので、昨年(2012年)の10月頃から体の色々な部分が、またぞろおかしくなって来て、「放っておけば、その内治るかな??」と甘い考えをしていたのですが、段々酷くなって行く一方です。
糖尿病からの癒着でプチ手術を練馬病院でやったりして・・・。
そうして人間は、一歩一歩と、老いて逝くのかな??



2012年に対してのメッセージ
2012年は、トップページは全くいじっていませんが、あちこちのページに少しだけ手を加えています。
本来ならば、「このページをリニューアルしました。」と書くべきなのでしょうが、文章を少し手直ししたり、2、3行書き加えたりと、とても「リニューアル」と言えるものではないので、ページ更新のメッセージは、何もしませんでした。あしからず・・・。

闘病記的には、心臓の手術以来、最初の5年間は心臓のパクパクがなかなか治らなくて、血圧も高いままで、いくら気をつけても、下がらないで困っていましたが、昨年の8月、9月から、突然血圧の薬が効き始めて、その後は血圧は安定しています。心臓のパクパクも、安静にしていれば、何とか収まるようには、なってきました。
という事で、無理をしないように気をつけながら、体力の回復に努めるようにしております。

定型のlessonやオケ室内楽のlesson、それぞれの教室の発表会に加えて、対外出演である八千代のコンサートも何とか無事に(???)2年目を終わることが出来ました。
その間、ミュージカルの出演や、ロビーコンサート等々、色々な対外出演をする事が出来て、活動も少しは活溌になって来たのかな??と思っているところです。
少子化の影響か、生徒数も伸び悩みですが、先生達も目一杯で、生徒を増やそうとすると先生を養成しなければならないし、先生を雇おうとすると、生徒がいなければならないという、dilemmaに悩まされています。
それ以上に、日本の現代の若者の無気力さに、頭を痛める今日です。
このままじゃあ、日本は確実に滅びるぞな、もし!
でも、その頃には、俺は居ないか・・・??


2011年1月末日
「年賀状が戻って来た!!」
・・・・・江古田の住所に対しての緊急の弁解

「今年の正月は年賀状が全く来ないなぁ~?!」と思っていたら、あちこちの友人、親戚の方から、「年賀状が宛先不明で戻ってきて、音楽教室のホームページや「芦塚陽二の回想録」も全く開かなくって、「そのPageは、・・・・」とmessageが出てしまうので、『これは、とうとう彼もカソケク(幽けく)なってしまったのかな?』と思って電話したのだよ。」と、お叱りを受けてしまいました。

という事で、皆々様にホームページの紙上を使って、弁解をします。
アハッ!ハッ、ハッ、ハッ!

[一番目の弁解]
原因の一番目は、江古田の事務所のお引越しにあたって、教室の事務所を椎名町にお引越ししたので、郵便局に郵便物の転送の委託をお願いしていたのですが、そのときに『私の個人名宛ての郵便物の転送を委託していなかった』という事と、『宛先の転送の依頼を毎年更新しなければならない。』という、ダブルの失敗が原因だったようです。教室の事務所でお手伝いをしてくれているアシスタントの先生が、「江古田教室は、教室だけのアドレスだ。」と勘違いをしてしまった事が、根本の原因でした。
実は、その先生が、江古田教室は、最初は、私の個人の住所として契約していて、本来的には、「私の住まいである」という事を全く知らなかったようです。
そのために、手続きを会社や教室、教室の先生達の宛先の住所変更をしていて、宛先が芦塚音楽研究所や芦塚音楽教室の先生方への年賀状は、そのまま問題なく椎名町の方に転送で、届いていたのですが、私宛の私個人名の郵便物だけが、宛先不明で差出人の方へ戻ってしまったようです。

会社としての手続き上、私の住所や、江古田教室としての住所はそのままで、変更は何もしていません。
江古田の教室はそのままlesson室として残っているし、芦塚音楽研究所の会社の住所も、アドレスはそのまま江古田になっているので、私宛の郵便物も、江古田教室の郵便受けにそのまま入れてもらえれば、何の問題も起こらなかったのですが、事務所の部分だけが、お引越しをしたので、利便性の関係で、椎名町の事務所に芦塚音楽研究所宛の郵便物を転送するように郵便局に以来を出したわけです。
ところが、郵便局が芦塚音楽研究所の転送依頼を受けた時点で、どういう分けか、私個人名宛の郵便物がどういう分けか、削除されてしまったようです。
牧野先生や斉藤先生も桃ちゃんも椎名町の宛先に変更したのですが、その時に私の住所を一緒に変更する事を忘れられてしまったようです。「誰だい?! プンプン!!  ヽ(`Д´)ノ」
昔、昔は「練馬区、芦塚先生」だけで、郵便が着いたりして、驚いた事がありましたが、今はパソコン上の自動仕分けになっているようなので、そういった職人芸の妙技はないようですね。

[二番目の弁解]  
と言う事で、謝りのお手紙を直接ご迷惑をおかけした皆様へお送りしなければならないのですが、話はもっと混みいってまして、複雑怪奇になってまいります。
実は昨年の暮れ12月の中旬に、自宅のパソコンにwebcameraの新しいソフトを入れましたが、そのソフトとwindowsメッセンジャーの相性が悪く、教室中のパソコンの調子が次々と何台も悪くなっていって、ついにその内の一台の、私の自宅のパソコンが、リストアも不能の、工場の修理になってしまいました。
何とかoutlookのback・upやfileはback・upが出来たのですが、いくつかの画像と年賀状のソフトに入っているデータは失われてしまいました。
年賀状のソフト自体はパス・ワードや**が残っていたので、復旧できたのですが、失われたデータは復旧出来ませんでした。
と言う事で、誰から年賀状が来たのかはともかく、毎年年賀状を届けてくれる知り合い友人の方々の住所やその他のデータを全て喪失してしまい、アドレスも分からない状態になってしまいました。
・・・・という事で、多くの方に対して、礼を失してしてしまう結果になってしまいました。

[三番目の弁解]

この話を「奇っ怪・・・」と敢えて表現したのは、その「混みいった話」・・・には、まだまだ続きがありまして、実は、この私のホームページのアドレス・・・・、所謂、このGate01.comのサイトのアドレスが1月よりプロバイダーの都合で、新しくなって、
http://hw001.
gate01.com/a42ka-402heiz/というアドレスが、プロバイダーの都合で
http://hw001.
spaaqs.ne.jp/a42ka-402heiz/というアドレスに変更されてしまっていました。
というわけで、私のホームページのサイトが、開かなくなってしまっていたのです。

私自身も、それを気がつかなくって、それを聞いた時、web上で、必死に失われたサイトを探したりして、あたふたしていました。
「でも、プロバイダーの会社からの連絡があっただろう?」って・・・??

・・・・・だから、暮れの12月の中旬には、ライブ・メッセンジャーとwebcameraの相性の問題で、教室のパソコンが5台、6台とも、全ておかしくなって、私の自宅のパソコンのdataもoutlookのメールも全てぶっ飛んでしまったのですよ!
だから、
プロバイダーからの連絡のメールもぶっ飛んだままだった のですよ。

パソコンの修理に関しては、思っていたよりも被害が大きく、何度も、webcameraのメーカーやパソコンのメーカーと連絡を取り合って、修理に望んでみたのですが、webcameraのソフトとwindows live 何とかのソフトの相性が悪く、泣く泣くテレビ電話のソフトをwindows live メッセンジャーから、skypeに変更して、やっとパソコンの修理が出来て、weblessonを再開する事が出来るようになりました。
教室や自宅のパソコン、5,6台を同時期に修理しなければならないという、本当に大変なひと月でした。
パソコンの修理は、先生達は出来ないので、たった一人で5台、6台のパソコンの修理をしなければなりません。
いや~??参った!参った!!
兎に角、大変であったぞなもし!!

と言う事で、つまり、不幸なトラブルが三つも重なってしまって、今回の年賀状のトラブルが起こってしまいました。
というわけで、誠に申し訳ありませんが、年賀状やその他の郵便が戻ってしまった方は、

芦塚音楽研究所椎名町事務所 
1710051 
東京都豊島区長崎2丁目23-2 
芦塚陽二宛

に御連絡お願いします。
友人からの電話による連絡を受けて、すぐに郵便局に新しく届けを提出しなおしましたが、1月10日以降の郵便物で、宛先不明で戻って来る郵便物がありましたら、至急連絡をお願いします。
連絡先:
椎名町事務所
電話:03-3959-5981 
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(更新:2011年1月19日 年賀状が戻ってしまった事に対しての弁解のお話)

(2011年の末月に記した2011年の末のまとめ)・・のお話
ですが、2011年は、私にとって、大変な重い年になってしまいました。

1月に八千代のコンサートの話があったのですが、それに子供達を出演させるか否かで、先生達ともめにもめる大問題になりました。
教室の子供達のオケのlevelや父兄の音楽に対する意識は、とてもとても「対外出演」に耐え得る程の水準ではなかったのですが、「プロになりたい。」という生徒と、「音楽の方に進みたい。」という生徒が、若干2名もいたので、その生徒達にpro‐versionのlevel(水準=Niveau)を教えたい、という私の願望と、折角、設立した私の教室の他の一般的な音楽教室との違い(差別化)を明確にするためと、教室の水準をもう一度、最初から立て直すために、言葉で(口で)100回、説明して、教えるという事よりも、一回、「対外出演」を体験させる事で、教室の中の演奏会である発表会と、外の世界の「音楽会」としてのコンサートとの違いを体で体験させる、という事を目的として、八千代のコンサートのお話を受けようと思ったからです。

しかし、巷の音楽教室としての延長線上のorchestraや室内楽に甘んじて来た、教室の生徒達のlevelを、「短期間にそこまで水準を上げるのは不可能だ。」という先生達の強力な反対がありましたが、その反対を私の独断で押し切って、通常のオケ練習の他に、対外出演の専科オケを作りました。

外で演奏するという想定の中での練習という事で、結構、厳しいlessonでしたが、子供達は思いの外、頑張って、みるみると上達していきました。
そういった私自身とっても、結構、厳しい状態での子供達への指導、練習で、やっと、水準に近づこうという姿勢まで育てる事が出来て、チョッと安堵したばっかしの、5月ぐらいにお袋の認知症が発症して、警察や役所から電話が掛かったりして、リハーサルの最中や、オケ練習の最中にもその対応に迫られたりして、私、個人に覆いかぶさったプレッシャーに、精神的にもゆとりがなくなっている同じ5月の最中に、私の兄貴が動脈解離で、緊急に病院に運ばれていきました。
(そこの所は「その後」のページに詳しくupしています。)
それから先は八千代のコンサート、四日市の発表会、長崎のすっかりおかしくなったお袋の家の中の整理と、介護施設探し等々、目の回るような忙しさと鬱々の毎日で、あっという間に1年が終わってしまいました。

人生とは(運命とは)不思議なもので、こういった事件(catastrophe)は一番肉体的にも精神的にも衰えた時に起こるものです。
自分自身の体調や鬱のコントロールで目一杯の時に、「これでもか!これでもか!」と、畳み掛けて来るのですよ。


           



2011年の暮れから12年の前半期の教室
(芦塚音楽研究所)のホームページのお話
2011年の暮れに、
殆んどパンク状態でページの更新ですら出来なくなっていた教室のホームページに関して、今まで契約していたプロバイダーとの話し合いで、別のプロバイダーに移籍することになりました。

何故、単にプロバイダーを移籍する事がそんなに大変な事だったのかについては、この契約が単にホームページのプロバイダーとしての契約ではなく、業務用のコピー機やパソコン本体その他の教室のOA機器の業務を一括で契約するOAのsystemに関する契約だったからなのです。

教室のホームページは、当時、まだパソコンが一般的でなかった頃に、その頃は未だ非常に難しかった色々なパソコンの設定やネットの設定を含めて、色々なパソコン関係のサービスを一緒にやってくれるという話で契約したのですが、その会社の技術者の技術レベルがあまりにも低く、トラブルが余りにも多かったので、少しづつ、問題を起こした部署から契約を解約してきました。
そして、最後にホームページのプロバイダー契約の部分だけが残っていました。

ホームページのプロバイダー契約が、最後迄残った理由は、契約上のトラブルではなく、当時は、私自身の心臓の手術や、その他諸々の病気で、病院の入退院を繰り返した後の病後の療養中でもあり、、ホームページのお引越しという作業を、私一人でこなすだけの体力に、私自身が自信を持てなかった!・・・・という事が最大の理由です。
それが、ホームページのプロバイダーを探したり、お引越ししたりする事が遅れた原因です。

やっと、去年の6月頃に意を決して、契約の解除を申し込んだのですが、「完全に契約が解除になるまで、3,4ヶ月かかる」と言われました。

まあ、こちとらとしても、新しいホームページに皆様が移行出来るように、古い方のホームページに引越しの連絡と自動的に新しいホームページにジャンプするように、相互のホームページをダブらせておく期間が必要なので、3,4ヶ月のintervalは、私達にとっても好都合なので、その間にお引越しのメッセージをネット上に公開しておきました。

新しいプロバイダーを契約することになったので、その機会に芦塚音楽研究所のホームページと、私の研究論文の発表の場としての、「芦塚先生のお部屋」というタイトルのホームページを分ける事にして、ホームページのサーバーの容量の問題の解決を図ることにしました。

実は、二つにホームページを分けても、サーバーの契約料金は、大幅にダウンしたのですよ。
いやぁ~、助かった!助かった!


2011年の6月から、対外出演として八千代の市からの要請で、子供達を混じえて演奏活動をしました。・・・というか、しています。 
 (まだまだ、進行中なので・・・)

対外出演は、教室の教育活動ではないので、子供達も含めて一般公開が原則です。
(勿論、対外出演参加の条件に、その一項があります。)

という事で、教室の生徒達の演奏活動も八千代出演者に限っては、You Tubeの公開も出来る事になりました。)
教室の発表会に於いても、八千代の対外出演の参加memberの演奏は、You Tubeにup出来る事になりました。

プロとなる第一歩は顔を覚えて貰うのが、仕事ですからね。
それに、プロの世界には大人も子供もないのですからね。
新体操にしても、映画やテレビの世界にしても、小さな子供達がプロとして活躍しています。
そこは教育ではなく、営業の世界なのですからね。
何故、音楽の世界だけが教育の場でならなければならないの??
教育とは子供にとっては教育にならないのだけどね???

(ここまでは、直接はこの闘病記とは関係のない、私個人の教室
(芦塚音楽研究所付属音楽教室)のホームページに関するお話です。)   以上は、2011年から12年の前半期のお話です。


             

以下の文章は、2011年以前の元々のホームページそのままの文章です。

古い文章のままなので、いずれ削除する予定です。

※2011年
という年は私にとって、とても重く大変な1年でした。
●お袋の認知症が5月に発症して、同じ5月に兄貴が動脈乖離で病院に運ばれて、至急と言う事で病院に呼ばれて、緊急に車を飛ばして、5時間、6時間も掛かって、病院に駆けつけなければなりませんでした。

●八千代の練習の最中に徘徊しているお袋の事で、警察から電話があったりして、オケ練習を誰かに任せる訳には行かないので、警察と練習との、対応に色々苦慮しなければなりませんでした。

●・・という事で、このメールは至る所で、日にちが飛んでしまっています。
精神的に鬱である事が、ただ単に「自分の体調」に起因する所から、そういった私を取り巻く状況に寄って引き起こされた「pressure」で、日常生活のゆとりが、全く無くなってしまった・・という所から引き起こされた鬱という意味なのです。

※2012年の7月3日から11月30日までの「鬱日記」を追記しました。

※写真を2,3枚追加しました。

※新たに鬱日記(Ⅱ)13年2月よりを付け加えました。

※2013年2月21日から9月26日迄の「鬱日記」を追記しました。

※未だ校正中です。


外部ページへのリンク

”芦塚先生のお部屋”




  

このホームページについてのご説明
始めてこのホームページを訪問された方への内容の簡単な説明です。


何か唐突に、新しい文章が始まりましたが、実はここからの文章が、ホームページを立ち上げた時の最初の文章でした。

このホームページが作られた経緯は、私の運営している教室のパソコンの作業と関係しています。

教室では、経理や事務の作業としては、かなり早くからパソコンで作業をしていましたが、本格的に教室全体の仕事としてパソコンを導入するために、コピー機やネットの回線を一括して導入しました。

その時に、ホームページのプロバイダーの契約も一緒にしました。

しかし、教室には、パソコンを使える人材が全く居ない、或いはパソコンの仕事を専門に仕事をするという人を雇うこともないままに、そのまま、5年近くも、放置されたままでホームページの契約料を払い続けていたのです。

勿論、教室としては、パソコンの専門家の人達と契約して、教室にパソコンを導入するためのsystem作りと、先生達にパソコンの使い方を指導して貰うために、結構、大枚を払って来たのですが、systemを始めとして、先生達へのパソコンの指導に関しても、全く、何の役にも立たないままに、お金の無駄になってしまいました。

パソコンの業者の人達は、私との契約を何も果たせないままに、「教室の先生達がパソコンを使いこなせなかったのが悪い!」と嘯いて、逃げてしまいました。
勿論、金は返金しないままです。

その次に雇った業者からも全く同じ事をされてしまいました。

という事で、業者に頼むのが無理、無駄なら、「パソコンのsystem化や、先生達への指導は私がする他はないか?!」と、その頃始まったばかりの、テレビ通販で、テレビの撮影用に使用した、notePCを、自腹でタイムセールで、ゲットして、私個人で自宅にプロバイダーの契約をして、パソコンの勉強を始めました。

2001年の最初のXPでLaVie Lの時代です。

それで自宅に結んだネットの契約の中で、無料のホームページの掲載が出来るので、そこでホームページビルダーの勉強を始めたのが、このホームページの始まりです。

という事で、最初は、このホームページは、全く一般公開をする気のない、私的なサイトのつもりで、身内の人達だけに公開する・・・という形で始めました。

という事で、以下の文章は、ホームページの作成の練習を兼ねた、私のブログ風のサイトである、という事をご了承ください。
完全なブログにしなかったのは、折角、メールを寄せて頂いても、その返信を書くだけの体力的な自信が無かったからです。

また、今、現在の状況では、教室のホームページも私が頑張って立ち上げましたが、本来は先生達か、生徒や弟子達が近況報告として、のページであるべきなのですが、そこまでパソコン周りの環境が整っていないので、「芦塚音楽研究所のホームページ」、「芦塚先生の部屋」、それにこの「闘病記」の3つのホームページを私一人で書かなければならない、という悪循環に陥って、とても、ブログ迄は手が回らないという事で、書きっぱなしの、ホームページにしております。

以下、本文


ホームページタイトルの変更について

実は、つい先日(ホームページを立ち上げた当初)までは、このホームページのタイトルは、「芦塚陽二のホームページ」 というタイトルでした。

味も素っ気もない
「芦塚陽二のホームページ」という、分けの分からないタイトルをつけた主な理由は、私がこのホームページを立ち上げた当初は、一般の方からのアクセスを全く想定していなくって、私とごくごく親しい友人や身内の人達のアクセスのみを想定していたからなのです。

つまり、それまでは
(と言うよりも、今日に至っても、まだそのままなのですが・・・)、私自身が、他の人達のブログやホーム・ページを見た事が無かったので、当然私のホーム・ページを見てくださる方も、「お~い、ホーム・ページを作ったからみてくれよ。」と私自身が声をかけた知人や、私の名前を知っている、限られた友人達だけしか読まないだろう・・・・・と、そういった軽い気持ちでホームページを立ち上げていたからなのです。

そういった考え方で立ち上げたホームページなので、「どうせ、ホーム・ページを立ち上げても、私の事を知っている方だけしかアクセスしないだろうな!?」という事で、「私、個人の事を良く知っている人達が読んでいる・・」 という想定で、一切自己紹介的な事は書きませんでした。
それが、この味も素っ気もないホームページのタイトルの理由でした。

ホームページを立ち上げて、しばらくして、「全くの偶然で、公開していないはずの、このホーム・ページを訪れた方」から、
「このホームページがいったい何について書かれたホームページか、また芦塚陽二とは何者かすら全く分かりませんよね。」という「お叱りのメール」を戴きました。
という事で、その方のadviceを参考にして、急遽ホームページのタイトル名を変更することにしました。

このホームページの特徴は、一応は私個人の日記風の回想録というスタイルではありますが、一般の回想録やブログとの顕著な違いは、病弱な青少年時代から、やむなく関わってきた病気との付き合いや、医者に対しての不平不満を書き連ねている事です。
という事で、ある程度は、このホームページの内容が分かるように、
「芦塚陽二の闘病記」いうタイトルに変更することにしました。

しかし、またしばらくして、一般の方から、
「闘病記」というタイトルの内容では、癌や再起不能の病気にかかった方が、もっと切実に、自分なりにいろいろと病気の事を研究したり、実に詳しく病状や薬、治療の経過等を報告されているケースが殆どで、「こういった箸にも棒にも掛からない、病人にとって何の参考にもならない、回顧録のような、エッセイのような文章と『闘病記』という深刻なタイトルとは、相容れないものだ。」 という内容のお叱りを受けました。
勿論、この
「お叱り』は、このホームページの「内容について」という事ではなく、あくまで検索する立場での「タイトルに付いて」のお話なので、私も素直にご意見を受け入れて、もう一度、タイトルを変更することにしました。
そういった、諸事情を経て、今のところ、再び、
「芦塚陽二の回想録」として、収まっており、内容がある程度は分かるように「病床記」という副題を添えました。
私としては、この反響を見るまでは、まさかこんなに、色々な方々に読んで頂けるとは思っても見ませんでした。


全くこのホームページの事を知らしめた分けではないのに、45年以上も経った(4年、5年ではなく、45年以上・・ですよ!)昔々の、中学生時代の同級生や、高校生の時の友人から「**年ぶりで君の近況を知ったよ。」というメールや電話をいただくにつけて、改めてホーム・ページの公共性や公開する事のすごさ、その反響の大きさを感じて、ただただ、空、恐ろしくもなりました。

 私的には(当世風の言い方ですみません。)このホーム・ページは、日記風な、かなり個人的なもの(私的なもの)でありますから、公開性にはそぐわないであろうし、また、闘病記らしく「私の体験に基づいて、医療現場の批判などを公表しよう」などという、おこがましい事はおくびにも考えてもおりませんので、一時はこのホームページ自体を、完全に閉鎖するか、或いは、極身近な仲間内だけの、セキュリティのかかった非公開のホームページにしてしまおうか、とも思ったりして、悩んでいましたが、私のこのホームページに、少なからず好意を持ってくださる友人やフアンの方の反対もあって、いまだにそのままにしております。

私自身としては、せいぜい「私の周りの友人達や、私が経営している音楽教室のご父兄の方達が、私個人の生い立ちを知る上での参考になればとか井戸端会議的に私の近況を見るように、見てくれればいいな~!」とか、甘い気持ちで書いていますので、その旨、よくご了解いただいて、この後の文章を閲覧ください。



上記の写真は、千葉検見川教室でのオケ練習のスナップです。
子供達に音楽の演奏技術のlectureだけではなく、作曲家のお話や曲の時代様式のお話、楽典の薀蓄等の音楽上のお話だけでなく、言葉の意味や人生の考え方等を、練習の機会を捉えておしゃべりするように心がけています。



これから以降は、一番最初のホームページを立ち上げたときの、そのままの文章です。

      

「芦塚陽二の闘病記」 第一稿(初稿)

(このホームページを立ち上げるまでの経緯)

芦塚音楽研究所のホームページのお話

以下は、この私のホームページのお話ではなく、教室の芦塚音楽研究所のホームページのお話です。本来的には、更新した時に、どんどん削除していくのが普通なのでしょうが、私としては日記風でも良いかな??と、前の文章を残すことにしました。どうしても、読みにくいようでしたら、また改めて削除することにします。

2004年7月某日
(更新の文章)

ホームページは、教室のパソコンのプロバイダーの契約をした時に、付随していた100メガのホームページを使用して、教室のホームページを作ったのが始まりです。

その当時は、私の音楽の研究論文や教育論文をホームページに掲載することは、全く考えていませんでした。

私の研究論文は、ドイツから帰国してきた1972年頃の、まだ大学講師をやっていた時代から、徒然なるままに書き綴られてきました。
教室を作った後で、冊子にして配布した私の研究教育論文を読んだ保護者の方から、「芦塚先生は私の事を論文に書いているでしょう?!」と、よく言われることがありますが、実は音楽教室を作る10年も以前から、その論文を書き上げて、大学の紀要とかに発表しているのですよ。
私が音楽教室を、一番最初に開いた千葉花園の音楽教室は、1982年頃(私が37歳ぐらいの時)に開設したのです。
その頃には、芦塚メトードは殆ど完成していたのですからね。
その紀要を読んでsymbthyを持った人から、当時、既に完成していた「芦塚メトードで教育をする教室を実際にどこかで開いて実践するように・・・」との依頼で、教室を開設したのですから。

勿論、その時代(私が30代の後半になる頃まで)には、ワープロもパソコンも一般では使用されていませんでした。
ですから、当然、私も、論文は手書きでコツコツと書いていました。
凄い、労力ですよね。

現在(2004年~2006年の間)は、研究所(教室)のホーム・ページには、不思議なことに、私の音楽の研究論文や教育論文などは掲載していません。

その理由は、ホーム・ページ上の容量的な問題の他に、私の個人的な論文や作品の中には、余りにも個人的、主観的過ぎて、教室のホームページとしては、
内容的に研究所のimageにそぐわないものもあります。

という事で、そういった、あまり教育的でないものや、個人的な愚痴みたいなものを、教室のホーム・ページでは無く、自分の個人のサイトで「芦塚陽二のホーム・ページ」というタイトルで立ち上げてみよう、と思ったのですが、なんとなんと、闘病記の部分だけで容量が目一杯になりそうな状況になってしまいました。
何故かと言うと、実はこの私個人のパソコンのサイトのサーバーは、ホームページ用のサーバーとして特別に契約した物ではなく、自宅のパソコンのインターネットを頼んだ時に、インターネットにサービス品として付随していた無料のサイトで、わずか20Mバイトの容量しかないのです。

本当は最初は、研究所のホーム・ページには載せられなかった、個人的研究論文や小説、詩、エッセイなど書き溜めた原稿を載せるつもりでこのサイトを立ち上げて見たのですが、あまりにも容量不足であるといった事情で割愛せざるを得なく、やむをえず現在は「闘病記」だけの文章になってしまいました。
(2011年、現在も闘病記だけではなく、付録のPageもメガ数をオーバーしないように調整しながら、私の個人的なエッセイ集を追加掲載しています。)

教室の無駄な作業について

教室としてのワープロの導入は非常に早く、ワープロが一般の家庭でも使用されるようになったのは、1980年代の後半からでしょうから、教室は、ワープロが一般的になる以前の、富士通のオアシスLiteの時代から、既に教室の事務や教材用に使用していた事になります。

私自身は、ドイツ時代には、ヨーロッパ式のキーボードを使用していました。ローマ字変換でも、欧州式という独特の型です。
ドイツ語やフランス語等の変換もあるので、Umlaut等のKeyもあります。
愛用の、タイプライターは音楽大学の学生時代に、銀座で買ったヘルメスのヘルメス・ベービーという、非常に珍しいモバイル型のタイプライターで、筆記体のしかも赤白が自由に切り替えられる2色のテープを使用したものです。まるで手書きのような、このタイプライターはとてもお気に入りで、当然、ドイツ留学にも連れて行って、帰国する時も、一緒に携えて帰って来ました。今も、ハイツに余生を送っています。
ヘルメス・ベービー  ⇒芦塚先生のパソコン教室から、「私がブラインドタッチの練習法を編み出す迄」に、写真と詳しい説明が書かれています。

という事で、私自身は、ローマ字変換なのですが、私自身は指に51文字が収まれば、ローマ字変換よりも絶対に素早く入力が出来るはずである、と考えていました。
私の兄貴は超人的に早くタイプをします。
しかし、日本語に変換される速度を見ていると、そんなに早く日本語に変換されているわけではありません。
つまり、ローマ字で2文字、3文字打って、やっと一文字が変換されているからです。

だから、富士通が親指shiftのワープロを作った時には、他のメーカーのワープロは考えられませんでした。
時々、
親指shiftで覚えてしまったら、パソコンのようなローマ字を打つ時に苦労するのでは??と聞いてくる人がいます。
しかし、幾ら、親指shiftで、日本語の入力をしていても、ローマ字の入力は、そのままなので、打ち換えに苦労する事は全くないのですが、その事については、幾ら説明しても、分かって貰える事はありませんでした!

人は「自分が理解出来ない事は、受け入れようとはしない」という性質を持っているからです。

この時代のワープロの記憶媒体は、未だフロッピーディスクではなく、紙で出来たカバーの中に、ビニールのディスクが入っているという貧弱なものでした。

左側から8インチ、5インチ、それとCDになる前の3.5インチのフロッピーディスクです。

勿論、今では、その次の時代として、CDディスクや、Blu-rayディスク、SDカードやUSBメモリ等等、無数の記憶媒体が出来上がっています。

3.5インチのフロッピーの時代に、2DDから、2HDに移行して、互換性がなくなってしまいました。

その為に、教室にある無数の2DDのフロッピーの媒体を2HDにtransposeしなければなりませんでした。

それだけならば、問題は然程、大きなものではないのですが、同様の変更が、βやVHSのビデオから、CD,DVD、Blu-rayへの移行で、数100本ある発表会のビデオをディスクにコピーしなければならなくなりました。

大変な面倒臭い一見無駄と思われる作業が教室の先生達に伸し掛って来ました。


左側のプリンターは、業務用のドットプリンターです。

結構、高価なもので、上のワープロと併せて、80万程設備費としてかかりました。

購入するにあたっては、結構、・・・清水の舞台的な、・・・決断がいったのですよ。

通常の家庭用のパソコンのプリンターと違って、B4版の印刷が出来る他、事務の穴あきの伝票も処理が出来るために、パソコンがどんどん新しくversionを上げて言っても、結構最後の最後迄、教室で活躍していました。

最後には、とうとう大きな故障と、メーカー側のメンテナンス期間の終了という事で、修理が出来なくなって、止むなく、その任務を終了しました。

という事で、教室がその作業を、ワープロから、パソコンに移行するまでの20数年間、10数台の親指シフトのデスクトップのワープロを使用して、教室の大切な業務に関する資料や、私の論文等を作業したのですが、この時期は私だけでなく、先生達も、一番若々しく、元気で、脂の乗りきった時期でもあり、教室の形態の形成や、ソフトの作成、論文等の多くの仕事の大半はこの、ワープロ時代の10年間、20年間になされました。


ワープロが既に過去の物になって、パソコンの時代になりましたが、ワープロ時代に書かれた膨大な資料を、パソコンに移行するには大変な労力を必要としていて、現在もまだ、終わってはいません。

それは、情報の移行が論文や表のようなワープロの作業に関する資料だけではなく、同じような作業が、資料として残してある動画や映像等々にも言えるからです。

レコードからCDへの変換や、βやVHSに残したビデオテープや、8ミリビデオテープ、コンパクトVHSCのテープ、そういったテープやレザーディスク等、或いは、カセットテープやマイクロカセットテープ等、膨大な資料がどんどん使用出来なくなっているからなのです。

そういった、大手の企業の営利目的の不親切な開発競争の結果による、しなくともよい無駄な仕事(記録媒体を移行させるという単純作業)も含めて江古田の作業になります。

企業からの、この無駄な作業のためになんと膨大な時間を費やしているのだろうか??

そのために出費している機材費も馬鹿にならない。というよりも、莫大な投資をしている。

江古田の部屋は、3号室が事務所になっていて、パソコンが数台置いてあります。

一番奥にあるnotepcは、私の個人所有のnotepcです。

写真には写っていませんが、この部屋には、このパソコンの他にも数台のパソコンがあります。

複数の先生達が同時作業が出来るように、という意味の他に、教室で最も重要なソフトであるfinaleという楽譜を書くためのノーテーションのソフトが、他のソフトと相性が非常に悪く、またそのソフトだけで、パソコンが重くなって他のソフトを入れることが出来ないからです。


また、ホームページには多くの写真が貼り付けられるので、パソコンが非常に重くなるのを防ぐ意味もあります。

注1.
2011年からは、芦塚音楽研究所のホームページを教室の広報のサイトと、私の研究論文のサイトに分けたので、ホームページの容量にゆとりが出来たので、教育論文や音楽の演奏法の専門的な論文も、積極的にホームページの私のサイトに掲載しています。)

そういった多彩なページの製作が出来るのは、実は研究所のホーム・ページが100Mバイトの容量を持っているからなのです。
100Mあれば動画や音楽そのものを載せない限り、そんなに内容的には困ることはありません。
本来的には私達は音楽教室を経営しているのですから、レッスン風景や発表会、或いは室内楽やオーケストラの練習風景をムービーで掲載する事が出来ればなぁ~。と常日頃思っています。100の説明よりも一瞬の映像が全てを本当に分かりやすく伝達することが出来ます。


注2.
ホームページ上に私のlessonのビデオや発表会の風景を載せるのは、まだ容量的には無理なようですが、対外出演の演奏として開催される演奏会の動画はYou Tubeに掲載することにしました。
対外出演の出演者を募集する段階で、対外出演自体が公開性を持っているので、公開は出演条件なので、当然You Tubeへの公開も可能だからです。
しかし、発表会や私のlesson等のビデオの公開は、個人情報という問題もありますので、教室の生徒や保護者の方達を対象としているホームページはともかくとしても、You Tube等の一般的な公開には、まだ掲載を決めかねています。

(2004年のコメントの追記)
私の希望としては教室のホームページには、報告を兼ねて1,2分でも良いから、演奏を動画で載せたいのですが、ホームページビルダーの通りに載せると動画は泣きたくなるほどしょぼいものになってしまいます。
(この状況は2011年現在も変わっていません。)
いやぁ!困った!困った!・・・・・・・・・!!!!

(2006年9月の追記)
「100メガあれば、何とかなる。」
いやぁ~!?それは甘かったですね。
教室のホーム・ページは、動画どころではなく、写真を載っけただけで、1Pageが一気に100メガをオーバーしてしまいました。
トップのページだけでも1メガ以上あります。
いや~、困った困った!!
今は必死にページの容量を減らして少しでも多くの情報を乗っけられるようにページを減らす努力をしています。 


だからといって、私のレッスンのビデオや先生方の演奏活動、音楽教室の発表会などを載せるには、まだまだホーム・ページの容量では無理があるようで、或いは、あわよくばムービーがサーバー上にうまく乗せられたとしても、多分皆様のコンピューターの方がフリーズしてしまうでしょう。コンピューターのお店に行くたびに、店員の人達に映像や音声がもっと乗せられないかを相談するのですが、今のところはまだ無理のようですね。)

(この文章はずいぶん以前のものですから悪しからず・・。)

このニャンコをクリックするとページのトップに戻ります。



2017年の9月20日から、Providerの変更で開かなくなっていた「芦塚陽二の闘病記」 を再開しました。改定作業は、もうしばらくお待ちください。


私の個人の病床記に戻って、

        各サイトのご説明とリンクです。

(最初は闘病記というタイトルだけに限定して、私の個人的な闘病生活をまとめてしまうつもりでしたが、あまりにもネガティブな文章なので、少しは別の方向からのアプローチも載せてみようかなと思って、現在は、闘病記の他に、容量のチェックをしながらほんの少しだけ、付録として最新のエッセイ集「愚痴とぼやき」から幾つかの文章を掲載しております。)

音楽大学在学時に長崎大学病院に再入院したときの写真です。
(多分1967年22歳の頃です。昔過ぎて分かりません。)
胃潰瘍と十二指腸潰瘍を患っての入院でしたが、その後も何度も再発を繰り返し、再発が止まるのは約30年後のピロリ菌が発見される1990年代後半まで待たなければなりませんでした。
その時には、手術ではなく、アメリカで作られた新薬のソルコセリルという薬を飲むだけである程度は治りました。






(1069年頃)長崎大学の正面玄関の前の噴水の前で


芦塚陽二の闘病記のサイトへ


第三の選択

闘病記の文集自体の総名称は「第三の選択」です。
「第三の選択」とは、私の造語ですから、あしからず。

「そんな言葉聞いた事がないよ!」なんて言わないように・・・・。

勿論、「第二の選択」・・と、言う言葉は、セカンドオピニオンを意味します。

セカンドオピニオンが、本人が望んだものでなければ、或いは・・・それに満足出来ない、若しくは・・・・望んだものには程遠い、・・・という結論だったら、普通は人はそこで、諦めてしまうのかもしれませんよね。
でも、生に執着のある人は、そこで思いっきりバタ狂って見ることでしょう。

そこで人が探すのが
「第三の選択」の選択です。

しかし、それは本人が、望むか、望まぬかに関わらず、しなければならない、最後の「決断」なのです。自分の生死をかけて・・・・。

聡明な人達が、馬鹿みたいな怪しげな薬を買わされたり、変な宗教団体のようなものに引っかかってしまうのも、この、「第三の選択」の時期でもあります。

昔のことわざ通りに、「おぼれるものは、藁でも掴む。」というわけです。

第二の選択、或いは、第三の選択にも見放された人達が、「何とか命の糸を繋ぎたいと願う、選択権の無い選択」として、「第三の選択」という名前を付けました。

とはいっても、私がSFが大好きである、という事実は否定しませんけどね。


私自身が、自分の闘病記を書くにあたっては、私自身がずっと病院とかかわりを持った人生を歩んできた、と言う事と、もう一つは私の周りの家族親戚一同が私が生まれてきたときから高校生になるまでは、不思議なことに、私が「医者になるものだ!」と、みんながそのように思ってきたということなのです。

私自身も回りがそう思うことについて、別に悪感情は抱いてはいませんでした。私の気持ちの中には医者という選択肢もあったのです。

音楽への憧れ

しかし、小さな子供のときから、昔のおんぼろのラジオから流れてくるクラシックの音楽に魅了されて、小学生のときから常に作曲家になることに憧れていました。

私が音楽の世界に踏み込む事を決定付けた(私に音楽の道を歩ませるに至った)出会いには、2つの曲との運命的なめぐり合いがあります。

その一つの曲は私が中学生の時に手に入れた、「ヘンデルのチェンバロ組曲集」ですが、Handelのその作品そのものが優れている事は当たり前ですが、それよりもアントン ハイラーという優れたチェンバリストの演奏による所が多いと思います。
(音楽大学に入学して以降、HandelのCembaloの組曲を他の人の演奏で何枚か手に入れたのですが、同じ曲なのに、やはりアントン・ハイラーの演奏から受ける程の感動、感銘はありませんでした。普通に上手くてもね・・・???)

また、ちょうど、その思春期の頃、中学2年生の時に、学校をサボって見た映画に、邦名「0地帯」、所謂、ナチスの収容所の話を描いた映画がありました。荒筋は、後の文章とダブってしまいますが、ダブリを承知で一応書いておきます。

美しい少女がCembaloのlessonでHandelの曲を演奏しています。そのmelodieはその少女がlessonを終わって、街をルンルンと歩いて帰るシーンでも、今から起きる悲劇を暗示するようにバックグラウンドで流れて行きます。
家の前に着くと人だかりがしていて、ユダヤ人狩りの最中でちょうど彼女の両親がトラックに乗せられる所でした。彼女を必死に抱き寄せて、そこへ行かせないようにしている近所のおばさんの手を振り払って、彼女は自分から車に乗り込んでしまうのです。
そこまで、Handelの名曲は切れることなしに流れて行きます。
もう、それだけで涙、涙です。
後は、たたみかける悲劇の連続です。
とても痛々しい、でも、私がその映画を見たわづか13年前まではその話は現実だったのですよ。
ここ迄のお話は下記にも全く同じお話がしてあります。悪しからず!



そして、もう一曲、私の一生を運命づけた2曲目は、モーツアルトのピアノコンチェルト24番のハ短調という曲です。
この左側の写真はまるで、美しい絵のようですが、何と若かりし頃のクララ ハスキルさんです。

クララも一生を難病との戦いに明け暮れて、体調が良い時には演奏活動をして、悪くなると闘病生活をして、と、そういう厳しい人生を歩んで来た人です。

だから、彼女の音楽は、痛々しい迄も流麗で、暖かい人間性に溢れています。
少なくとも、若く美しい音大生のように、美女でお金持ちのわがままなお嬢様の音楽ではないのですよ。

ハスキルのMozartは、ギーゼキングのような、Mozart的なtraditionalなMozartではなく、フッシャーと同様に、ロマン派のスタイルを取る演奏ですが、自称Mozart弾きの女流ピアニストの*さんのような過度なロマン派のスタイルではなく、上品な優美さに溢れています。

クララ ハスキルの奏く流麗なleidenschftlischeな調べのハ短調のコンチェルト、そのケッヘル番号(モーツアルトの作品番号は、・・・・・な、な、何と・・・491番です!

またその曲の持つ救いようの無い満たされない感情吐露はこの曲がモーツアルトであることを忘れさせるような悲劇的感情に満ちています。

そのケッヘル番号が491とは、またなんという偶然でしょうか?
キリスト教的には491という数字は「オーメンの映画の666の数字」以上に意味深い数字であります。

人は、罪深く、よく過ちを犯します。
(別に宗教の時間ではありませんので、ご心配なく・・・。)

人間が神様との約束を破って罪を犯すことがあります。

人の犯した罪に対して、お釈迦様は割りと短気で「釈迦の顔も3度まで・・。」(仏の顔も・・というのもありますね。)ですが、イエス・キリスト様は比較的寛容で「7の70倍までの罪」は許してくれるそうです。

しかし、7の70倍を超えた罪は・・・・・・!

と言う事でキリスト教では[許されざる罪]を491という数字で表します。

(私がまだ小学生1年生の頃、「491」というタイトルの映画が、当時私が住んでいた、長崎の町でも上映されました。
勿論、小学生の低学年であった私は「491」という映画よりも「バンビ」という映画を見に行ったはづですが。
・・というわけで、映画は見てはいないのですが、内容は校内暴力を扱った映画で、その中に獣姦のシーンが出てくるという、当時としてはとてもスキャンダラスなものであったそうですが、今日はもっと怖い、残酷な映画はいっぱいありますよね、今日見たら如何でしょうかね?

時代と共に罪深さの程度もかわっていくのかな?
それよりも、よく覚えているよね??   そんな昔の事を・・・!

歳をとると、脳の表面が溶けて行って、近い記憶から失われてしまうそうです。逆に脳の奥に仕舞い込まれた記憶が表面に出てくるので、老人が昔の記憶を鮮明に思い出す事が出来るのだそうです。

私も、今の事が中々覚えられないのは、そのせいかな??
アッ、ハッ、ハッ、ハッ!!

中学生の時には、よく、学校をサボって映画鑑賞に行きました。
つまり、中1まで居た私の生まれ故郷である諫早市には映画館が2件しかなく、やっていた映画は精々「ゴジラ」ぐらいでしたから、後は日蓮上人と蒙古大襲来という映画も覚えているかな??
つまり、ろくな映画はなかったから見に行く事も殆どなかったのだよ。

長崎は地方ではまだ都会の方で、名画の上演も結構ありました。

中学生2年生の時には、学校をサボって、下町の映画館に「春の目覚め」という怪し気なポスターの貼られていた映画を見に行きました。

切符を買う時に周りの人は胡散臭そうな白い目で僕の事を見ていたよ。

英語の原題はyoung Aphroditeとなっているのだけど、邦題を「春のめざめ」と訳した日本人が、この映画のストーリーを、アダルト映画と勘違いしたのかな??

ポスターも実にアダルトっぽかったしね。

街のあちこちに貼ってあったポスターはこの左側の絵ではなく、座って祈るような感じで手を合わせているような絵であったと記憶している。

何せ、50年以上前の話だから定かではないが・・・・。
前で合わせている腕の間からおっぱいがこぼれ落ちるように、はみ出しているのが艶かしく、中学生の私にとっては、胸がドキドキものであったよ。

今の、心臓パクパクとは関係ないけれどね・・・???

そういった、当時としては、結構、扇情的なポスターで、それでアダルト映画のように思われたのだろうけれど、中身はとても、素晴らしい「映像の詩」とも呼べるものだよ。

実はギリシャの名作映画で、コクトーとピカソが作った映画なんだけどね。


このコンビの代表作はオルフェオだろう。(黒いオルフェとは違うよ!)マジに、ギリシャ悲劇の「オルフェウスとエウリュディケ」の物語だ。

日本流に言うと、「黄泉比良坂(よもつひらさか)」になるのかな?

いずれにしても、この「春のめざめ」は、映画版の「ダフニスとクローエ」だと思うんだけどな・・・・?

実際には、ギリシャの有名な女流監督が撮影した映画で、映画は全編に渡って、殆ど会話という会話がなく、ギリシャの民族楽器で音楽が彩られ、朴訥とした、会話にならない会話、詩的な言葉が語られる。
ギリシャの美しい少女と、幼い男の子の初恋にもならないような幼さない恋と、大人の情欲が比較対照されて描かれている。

とは言っても、淡々と美しい映像が流れていた事をその朴訥とした言葉と映像を鮮やかに記憶している。

学校をサボって一人で見に行っただけの価値のある映画だったよね。

残念ながら、DVD等を探してはいるのだが、未だ見つからないので、50年も前の記憶の中だけの映画だ。

同じように、私の少年時代、思春期の頃に、「春のめざめ」と同じように学校をサボって、当時は長崎駅の駅前の地下にある映画館で見た映画で、強烈なインパクトを私に与えた映画に、上記の「0地帯」という映画があります。
ナチのKonzentrationslager(強制収容所)を扱った映画なのです。

下の写真の可愛い少女は映画とは関係ありません。ただのimageです。
ピアニスティンのクララ・ハスキルの少女時代の写真です。

映画の冒頭は、美しい少女がチェンバロのレッスンを受けている光景からいきなり始まります。

曲はHandelのチェンバロ組曲3番のVariationであろうか?
悲劇的で悲愴で耐え難く美しいメロディーが、次に起こる悲劇を暗示するように館内に響き渡る。

レッスンを終わって、少女は楽しげにルンルンと石畳の狭い路地を歩いて行く。

家の前に着くと、ちょうど、両親はナチに捕らえられて、トラックに乗せられている所だった。

近所のオバさんが少女を必死に抱きしめているのに、少女はその手を振りほどいて、両親の乗せられている車に飛び乗ってしまう。

同じ話を上記に書いてしまったのだが、そこまでが、この映画の前振り、所謂、タイトルバックである。

Handelの音楽はそこで終了して、未だ幼い少女が強制収容所で幼い命を失うまでの筆舌に尽くせない悲劇的な体験が延々と、これでもか!これでもか!と、描かれて行く。



強制収容所に着いた少女は、両親とは引き裂かれ、(両親はそのままガス室に送られるのだが)美しい髪を切られる。
ここら辺も史実通りである。

腹をすかした少女が、たった一切れのパンが欲しくて、ナチの若い将校達に身を投げ出す。

そして、仲間である同じユダヤ人を裏切って、ナチのスパイになって、カポー(kapo)監守になって・・・・等々・・
最後は、ロシア軍が近づいて来るので、収容所の存在を隠すために、ナチはユダヤ人達を抹殺しようとする。

それを知ったユダヤ人の人達が集団脱走を試みるという事で、ユダヤ人達から、鉄条網の電気のスイッチを切るように、(囮になるように)仲間のユダヤ人達から強制されるのだが、嫌々ながら、囮になって、鉄条網の電気を切って、そこをナチの監視員の銃で撃たれた少女が恋人の胸で、「ナチの印を剥ぎ取ってくれ」と哀願するシーンから、収容所を逃げ出す人々的が段々遠景になっていって、遠くの方にロシア軍が収容所に近づいてくるシーンで終わる。

全く、救いようのない、これでもか!!というような、映画で、私が絶対に2度と見たくない、映画である。

でも、この二つの映画の少女達は、それでも当時の私よりは、同じ歳か、1歳か2歳ぐらいしか、離れていない年の少女だったのだよ。

私がその映画を見たのは、中学2年生の時だから、13歳か、14歳なのだから・・・・。

主人公の女の子は13歳か、14、15歳ぐらいの想定だったからだよ。

それに、この悲惨なKonzentrationslagerの出来事は、その映画を見た時の私の、13年前に実際にあった史実なのだから。


有名な夜と霧という本がある。

戦後の物のない時代にいち早く出版されたナチの強制収容所の実態を暴く本である。その本に挿入されている沢山の写真は、人間が何処まで残酷に、残虐になれるのだろうか、という恐怖さえ抱かせる。

その実写の写真は、映画「0地帯」の中にも、挿入されて、人間の愚かさを知らしめている。

つまり、この映画を見た、13年か14年前には、未だにそういった残虐な行為は現実だったのだよ。

人間を人間と思わない行為・・・それが戦争なのだよ。
戦争に大義名分はない。

愚かさだけがあるのだよ。
負けても、勝っても、人の生命は失われて行く。

私の祖母も、その「お国のため」という・・・如何にも・・・の大義名分のために、自分の子供達を何人、失ったのか・・・・??

このストーリーを詳しく書くのは、憚られる・・・と言うか、思い出すのも辛い。
私達にとっては、この映画の中のお話は、フィクションのストーリーではなく、ホンのチョッと前に実際に起こった出来事だったからだ。

この映画も、もう一度見たくても、残念ながら、ネットではヒットしない。
これ程の戦争の愚かさを描いた映画は一般的に受けないからね。
DVDでも焼いてあれば、是非買いたいのだが、こういった映画は一度見ても、再び見れる事はない。

2013年の阿部さんの政権になって、テレビのコマーシャルで、韓流スターの若いアイドルを前に、テレビのキャスターが「韓国は徴兵があるから、若い男の子がキビキビとして良い」と言っていたのは、私達としては絶対に許せない。

徴兵をエステとでも思っているのかい??

幾ら美人でも、そんなに愚かならキャスターはやって行けないのでは??
否、美人で愚かだから、やっているのか・・・・?!?!?!

世界で徴兵のない国は、数える程しかないのだよ。
それは、「自分達は二度と戦争を起こしません。」という誓いなのだよ。

安倍さんは、集団的自衛権という言葉を口にしている。

「憲法の第9条も見直したい」と公言している。

それでは、いったい何をしたいのだろうね。
キャスターは公人だよ!
テレビも公共の媒体だよ。

今、トヨタのテレビのCMで有名な「柔肌の熱き血潮に触れもみで・・・」の与謝野晶子は、戦地に赴く弟に向けて、君死にたまう事なかれ・・・という、命懸けの歌を歌っているのだよ。

あの軍国主義の時代に、人が何一つ思う事を言う事が出来なかった時に、強烈な反戦のメッセージを送っているのだよ。

キャスターなら、それぐらいの気概を持って欲しいものだな。

所詮は、肉食系の女性だから、そんな、魂の事は分からんか・・・????

全ての作曲家達が一番大切にしているのは、魂の自由だよ。

自分の心だよ。

映画0地帯
参考までに「0地帯」の詳しいストーリーにリンクします。



その頃はハリウッド全盛時代で、カーク・ダグラスの「スパルタカス」とかチャールトン・ヘストンの「十戒」とか、歴史的な大作が結構いっぱい上演されて、小学校の時の「山学校」の次は中学校、高校と、今度は「映画鑑賞の時間」だったのかな??

後は、ドイツ文学に興味を持って、E T A Hofmannの小説やHesseの小説に凝ったものだ!

その頃の読書や映画鑑賞が今の私の音楽への知識と理解に少なからぬ影響を与えたと思われる。
はっきり言って、学校で学べたものは、たし算と掛け算だけだったのかな?
平仮名は小学生に行く前の3歳ぐらいでは、或る程度の本は読めたし、漢字は学校では習わない旧漢字も読めるからね。
それは私が読んでいた文庫本によるものだよ。
その頃の文庫本は全部旧漢字だったのでね。
いつの間にか、読めるようになっていたのだよ。

今の子供達は、塾とスマホしかなくって、いやあ実に可哀想だね。
私は、塾やスマホのない時代に生きる事が出来て、実に幸せだと思うよ。

親も一度も、学校の勉強の事や成績の事を口にしなかったし、子供の人生は子供が決めるという時代だったから、人生に迷いのない、実に幸せな少年時代だったね。

お隣の韓国の女子大生が「日本の若者は、自分の将来を親や、教師、はたまた自分の友人に、決めて貰うのか??」と、腰を抜かして、驚いていたよ!

その問いかけに対して、日本人の若者は、「実際の経験がないから、経験のある人に決めて貰う方が安全だから!」と言っていた。

それを聞いた韓国の女性は、呆れていたよ。

韓国の女性からに限らず、日本の若者は世界中の笑いものだよね。

他人の経験は何も役に立たないのだよ。

その人の将来を、学校が決めても、他人が決めても、実際にはその人の未来の責任は、自分で取らなければならない。
その人のアドバイスで、自分が自分の人生を失敗したとしても、その人が何か保証してくれる事はないのだよ。
その時に、責任を取るのは、自分自身だ、という事が分かっているのかな??

分かっていないから、自分で自分の面倒を見れないで、ニートや引き籠もりになるのだよね。

実に、飽食の時代の、バカバカしい世の中だよね。

闘病記以外の付録のページのご説明


このホームページは、多分あと5M位は余っているかもしれないので
、最新の著作集「愚痴とぼやき」から幾つか載せておきます。
この文集は50歳代に入ってから書かれたものです。

他にも、未公開の文集はまだまだ沢山ありますが、この
「愚痴とぼやき」が大変珍しいのはノートや原稿用紙類の書き散らかしや反古の紙が全く無いということです。

私自身の著作集では既に大分前の文集から、既にワープロを使用していました。
ワープロの時代は10年以上の長きに亘って続きましたから、私も早々と著作にはワープロを使用していました。

しかしながら不思議なことにワープロで原稿を書きながらでも、やはり要めの所は手書きでした。

やはり、自分の持っている時代遅れな(時代についていけない)感覚というのでしょうか?ワープロに任せることがなんとなく不安なのでしょうか・・・?

しかしそのうちに、(ワープロからコンピューターに代わった頃から、)文章の入力だけでなく、作曲なども楽譜を書かないでコンピューターに直接入力するようになってしまいました。
・・・と言う事で、作曲などもピアノを弾く事もなく、いきなり、コンピューターの画面上の譜面に一音符、一音符、直接入力するようになってしまいました。
これも、よる時代の波というのでしょうかね?



 




一緒にBeethovenの漫画を書いた、漫画家の加藤君が、書いてくれたBeyerの物語に登場する私です。
当時は私は超が付く程のヘビースモーカーで、ほろ酔い気分で、顔を真っ赤にしながら、ビールを飲んでいる最中も、タバコを(正式にはシガレットですが)手放さないで喫っている風景がよく描けています。
教室の先生や生徒には、「あまり似ていない」と、評判はよくないのですが、
私としては、マンガの中に登場できたのでご機嫌です。



心臓の手術の後の、リハビリの一環として、
ジーグとノン(カノン)を連れて、散歩しているイラストです。
これは結構、私のお気に入りのマンガ(イラスト)で、斉藤先生が書いてくれたものです。
私の論文に使えるように、色々なポーズのマンガを描いてくれるようにお願いしているのですが、斉藤先生が忙しすぎて、私のマンガをなかなか描いて貰えないのですが。













               
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(上記のメールアドレスは迷惑メール防止のためにリンクさせていませんので、悪しからず・・・。)








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