論文のネタ集V
(memo書き)
儒教について
日本人の持つ基本的な考え方は、多かれ少なかれ儒教思想の影響を受けている。
儒教の根本的な思想は、絶対君主に忠実に従うという考え方である。
時の覇者である徳川家康が、自分と自分の親族の治世を安泰にするために、色々な思想の中から選び抜いた思想であると言える。儒教では、皇帝は神格化され、現人神とされ、人々はピラミッド化された支配層の下で、皇帝(=天皇)を信じ、、領主に忠誠を尽くし、上司に従う。自分の親を尊敬し、妻や子供を保護する為に身を尽くす。
国を守り、家族を守る事が、自分自身を守る事に直接的に繋がって行く。
これが儒教思想の典型的な考え方である。
その儒教思想は、徳川幕府が崩壊しても、明治時代からは為政者が幕府から天皇にすげ替えられただけである。
また、戦後、現人神である天皇が、人間宣言をし、主権が民に移ったとしても、その儒教的な思想は、天皇から会社に移っただけで、会社もその見返りとして、終身雇用制という会社の形態でその思想を維持をした。
日本人は、自分の力で自由を手に入れた分けではない。戦争に敗れて、アメリカによって与えられた自由である。という分けで、基本的に日本人は個人の自由を望まない、個に対しての未成熟な国民なのである。
日本人は会社によって自分が縛られること、全ての責任を会社が見てくれて、唯、何も考える事もなく、会社の為に働けば、人生が全うされるという事を、日本人は心地好く感じてさえいる。
今、現在、社会問題化している、引き篭りも、何もしなくとも、保護者が保護者の責任の下に、住まいと食事を与えてくれる事にある。つまり、会社が家庭になっただけの事である。
それを日本人の独得の安定志向というのだが、今日、経済社会がグローバル化して、中国や台湾、インドネシア等の安い商品が日本中に出回って、日本独自の高度な技術力ですら、今はアジアの諸国に移動しているのに、そういった儒教的な甘えの思想が、世界に通じるわけはないのに、親は子供に対しては甘いのですよ。塾に行って成績さえ上げておけば、何とかなる。」・・・そんな、都合の良い、むしの良い話はないのにね。
[儒教的苦しさの等価交換]
儒教の考え方の、もう一つの特徴は等価交換の考え方である。自分が命をかけて尽くせば、それに見合うだけの対価を貰えるという考え方である。
自分が苦労し、苦しんで努力すれば、当然それに似合う対価や成功を得ることが出来るという思想である。だから、成績が足りないのは、それだけの努力が足りないと判断されてしまう。
逆の言い方をすれば、あそこの大学に入るためには、これだけの努力をしなければならない。とか、その苦しみの量で、目標を定めているのだ。
学校で生徒を指導していると、家庭環境に恵まれて、何のどりょくも、苦労もなく、勉強も音楽や美術の芸術も体育までも完璧にこなしている生徒がいる。その反面、一生懸命、勉強し、努力をしているのにもかかわらず、1や2しか貰えない子供もいる。
という事で、小学校の中には、競争教育を否定し、子供達の評価すらしないという学校まで、現れてしまった。儒教教育に対する極端なアンチテーゼであろうか?
或時に、私が子供達に質問をした。
「なんの努力も、苦労も、勉強もしなくても、学校で1番の成績を取れるのなら、1番になりたいと思う?」
子供は答えて「私は1番にはなりたくない。普通がいい。」と言った。
これは困った!
儒教的な考え方は、進学系の学校や塾にとってはとても便利な考え方でもある。
「それだけの努力をしても、たどり着けないぐらいに目標のレベルは高かったのだよ。」で、済んでしまうからだ。
「私は偉いのよ。だから、私の言うことを、あなたが出来ないのは、当たり前なのだわ!」
「私があなたが、何故そんなことも出来ないのか、分からないわ!」
以下、同文、何でもそれで済んでしまう。
・・・・それで、済めば、ホント、人生は簡単だよね。
2011/07/22 (金) 23:03
日本人は
リズムを頭で考えていて、体で感じていない
RhythmはMetronomの機械的なtempoではない。2拍子系の曲であれ、3拍子系の曲であれ、基本は舞曲のrhythmである。3拍子であるからといって、1,2,3のtempoではないのだ。MazurkaはMazurkaのtempoで演奏されなければならないし、ValseはValseのtempoでなければならない。MenuettはそれこそMenuettのtempoで演奏されなければならないのだよ。
2011/07/22 (金) 23:16
アカデミズムやネームバリューで先生の威厳を見せようとする。先生の知名度や学校の知名度で自分のi
dentityを得ようとする。
ブランドに走る日本人は、本当の本物を見分ける事は出来ない。
ブランドはブランドであり、本当の本物ではないからだ。
人生を真摯に捉える人だけが、本当の本物を見分ける目を持つことが出来る。
2011/08/14 (日) 1:29
ヴァイオリンの音の出し方
ヴァイオリンの音の出し方は大きく分類して二通りの方法がある。
音を絞り込んで出す方法と、音の響き(余韻)で演奏する方法である。
二胡 や馬頭琴のような弦楽器は、ヨーロッパのヴァイオリン族のような共鳴のさせ形はしない!
東洋の楽器は基本音を絞り込んで強い音を出す。高温多湿のモンゴルや中国のような大陸ではそうした方が、一番音が響くからである。
それに対して、乾燥したヨーロッパの風土、石造りの家、或いは石で出来たヨーロッパ・アルプスの山々では、残響を生かす方が音をより遠くまで伝達させる事が出来る。
楽器の中ではチェンバロンやギターから、所謂、ピアノやCembaloに至る鍵盤楽器の発弦は全て余韻の音である。
子供や趣味の大人の人達にPianoの音の発弦に対しての説明をするときに、オシログラフの画面を見せながら、「ピアノが実際に音を出すのは、この打鍵の瞬間だけなのです。人がPianoの音と感じているのは、Pianoの残響の音、余韻の音なのです。」というと驚かれる事が多い。
これは先ほど挙げたチェンバロンやPianoのように、発弦機構が弦をスプーンやハンマーで叩くものや、cembaloやギターのような引っ掻く(爪ではじく)楽器でも同じである。
日本人の弦楽器の音楽家達は、楽器を育てるという事をしない。
弦楽器の音の作音は、楽器メーカーのメンテナンスの仕事であると思い込んでいる。
本当に楽器を育てる事が出来る演奏家達は楽器のメンテナンスが終わると、「楽器がならなくなった!」と言って必死になって作音をする。
毎日、作音をして、本当に楽器が本来の音で、鳴り始めるのは半年後だから、やっと楽器が鳴り始めた頃の、半年に一度のメンテナンスは演奏家にとっては結構辛いものがある。
実はヴァイオリンもヨーロッパで育ってきた楽器なので、PianoやCembaloのような打弦楽器である、といったら、殆どの人達が腰を抜かすほど驚くか、頭がおかしくなってきたのか、と思われるかもしれない。
ヴァイオリンの発弦法は大きく2種類ある。二胡や馬頭琴のように音を絞り込んで強い響きの音を出す方法と、楽器を共鳴させて、音を出す方法である。
この作音法を理解するには、ビオラ ダ ガンバのような大型の楽器でバロックやルネッサンスの曲を演奏しているのを聞くと良い。その奏法の中に、楽器を共鳴させて音を作っていくpassageが幾つも見受けられるからである。一見すると日本の演歌のような後出し奏法に誤解されるかもしれないのだが、それはbaroque時代にはまだ、発弦時のアタックが確立していなかったからである。ヴァイオリンのような小型の楽器では共鳴が少ないので、こういった奏法はビオラ ダ ガンバのようにオーバーには奏されなかった。しかし、そういった奏法をしなかったわけではない。あくまで、チェロやビオラ ダ ガンバのように、はっきりと表現されなかったというだけである。小型の楽器は発弦も早い。だからそういった奏法をしていても、目立たないだけである。しかし、baroqueの作曲家達はヴァイオリンの曲にはそういったkonsonanz(共鳴音)を生かした曲を数多く作曲した。(というよりも、殆どの曲がkonsonanzを生かして作曲されているのだ。)
しかし、そういった弦楽器のkonsonanzを生かす作曲は時代と共に失われていく。
その理由は大きく二つある。その一つは音楽が民衆の物になって、より大きな会場で演奏されるようになったために、弦楽器も強い音が必要になり、張りの強い弦をささえるために、ネックの長さを長くしたり、胴体に力木を入れて強い張力に耐えられるように改造されることによって、konsonanzを生かして演奏するというstyleが失われたり、また、ロマン派のような時代様式がbaroqueの華やかなものよりも、くすんだ微妙な色合いを好んだからである。勿論、けして、作曲家がそういった楽器の特性を知らなかったわけではないのではあるのだが、一つのメリットを得るために、ヴァイオリン本来の響を失う事になってしまったのである。
2種類の方法
残響を聞き取れる耳を育てる!
日本の音楽家は残響を聞こうとはしない!
そこにもヨーロッパの人種と、アジアの人種の国民性の差がある!
2011/08/07 (日) 23:11
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日本人のヴァイオリニストの音は、二胡の音である。
所謂、絞り込んで捻り出す音である。
サイレント・ヴァイオリンという日本の大手メーカーが作った、変な楽器がある。
日本のメーカーが、サイレント・ヴァイオリンを作って売り出す前にも、昔々から、俗に骸骨ヴァイオリン(と冗談を言っていた)共鳴させる胴体のない練習用のヴァイオリンが、売っていたこともある。ヴァイオリンの裏板を外したり、半分に切ったり、と、でも、ヴァイオリンから作るので、骸骨ヴァイオリンとは言っても、結構高かった。
しかし、よくよく考えてみると、そんな高い練習用の骸骨ヴァイオリンを買わなくとも、ミュート(弱音器)の一番強いタイプ、所謂、音殺しと言われるタイプのミュートを使用すれば、骸骨ヴァイオリンと同じ音量になるので、ヴァイオリンを持っている人にとっては、骸骨ヴァイオリンもサイレント・ヴァイオリンも必要はない。
ここで、長々とサイレント・ヴァイオリンの話をしたのは、日本人のヴァイオリニストの奏でる音が、(本物のヴァイオリンを弾いているのにも関わらず)骸骨ヴァイオリンのように、或いはサイレント・ヴァイオリンのように、響かないという事なのだ。日本人のヴァイオリニストは楽器を響かせようとはしないで、楽器を力で強引に演奏する。そのために楽器は悲鳴を上げている。
余韻の音を出そうとしないので、ヴァイオリンの全ての音が、サイレント・ヴァイオリンのように汚い。
子供達に余韻の響を教える時には、軽くkonsonanz(共鳴音)の音を、アタックさせて(軽く引っ掛けるように弾かせて)、その後に響く余韻の音を聞かせる。そういう訓練を積むことによって、konsonanzの音を聞き取る事が出来るように育っていく。
ロマン派の時代になると、共鳴しにくい霧(ミスト)の世界のような、或いは水墨画のようなおぼろげな世界の音が好まれるようになる。Baroqueや古典派の勉強でしっかりとkonsonanzを練習し、習得しておかないと、楽器はだんだん鳴らなくなってしまってくる。
2011/08/04 (木) 11:50
うさぎと亀の話し
兎と亀の話しは、明治時代の子供達の修身の寓話として、或いは童話として、語り継がれてきた。コツコツと勤勉に努力をするのならば、その努力は必ず報われるものである、という意味であろうか?
明治時代の純朴な幼子や私達の時代の幼少期でもあったのなら、その話は子供達の心にも届いて、受け入れられてきたのかもしれない。
しかし、当世の子供達はこの話をどう聞くのだろうか?
という事で、幾つかの小学校の低学年の生徒達に協力してもらって、この童話の感想を聞いた。
早期教育の学習塾や高度な教育を受けている、子供達は幼年期の子供と言えども、手練手管に長けている。
子供達にちょっと質問しただけでも、まず、子供達から返って来た言葉は、「兎が「怠け者」であるという想定は如何なものか?」という反論である。
兎が小学1年生ぐらいならば、次の仮定を想定する。という事らしい。
つまり、兎は・・・・
@ゴールにたどり着いてから昼寝をした。
A目覚まし時計をセットして、昼寝をした。
Bスタート前に昼寝をしてから、出発した。
つまり、今の子供達にとっては、亀が兎に勝つ事が出来たのは、全くの偶然であり、例外であるのだそうな。
私は子供達によく4択の問題を出す。
出来る、出来ない、と、早い、遅いの4択である。
社会で1番目に必要とされる人材は、早くて確実に仕事の出来る人材である。そういった人材が見いだせなかった場合には、2択の遅くても丁寧で確実な人が選ばれる。
3番目の早くても雑でミスが多い、とかの選択肢は基本的にはない。仕事では、頼まれた仕事が「出来ない」という選択肢はないからである。それでは金は払えないからだ。
4番目の遅くて雑でミスだらけ・・というのは、有り得ない。これは、仕事以前の問題であるからだ。
2011/08/03 (水) 11:30
時短の法則は、薄利多売の法則でもある。
時短が出来ない人は、1分、2分の時間をsparen(貯蓄する)する事が出来ない人なのだ。
本当の意味での怠け者は、一攫千金を得ようとする。ギャンブラー然りである。
薄利多売は一つ一つの儲けは少ないがそれを積み重ねて行くことで、大きな儲けを得るという事である。「そんな、たった1,2分の時間を節約するためなら、今まで通りの慣れたやり方でいいわ!」という事ならば、その人はいつまでも進歩することはないし、仕事が改善されていくこともない。
教室の発表会でも、一人、一人が入退場で15秒づつ遅れたとすると、終わりの時間は30分以上の遅れになってしまう。
2011/08/01 (月) 15:09
子供を猫っ可愛がりする事を、子供を愛していると勘違いをしている母親が多く見受けられるようになった。猫っ可愛がりは子供を愛しているわけではなく、自分のおもちゃにしているのに過ぎない。曰く、ペット的な可愛がり方である。それを持って、子供を愛しているという事は出来ない。
愛には責任を伴うからである。
決して子供を可愛くって仕方がないから、子供を愛しているのではない。
それは単なる自己愛に過ぎない。
2011/08/10 (水) 16:51
昔ながらのお稲荷さん
昔お稲荷さんと言えば、本当にキツネの口の先のように、鋭く尖っていた!子供の頃は俵状のお稲荷さんは無かったのだよ!
今、キツネの口のように尖った油揚げを見ることは、すっかり無くなってしまった!
2011/04/16 (土) 11:37
NHKの教育テレビで
高校の4人に一人が高校を中退している。
一番の理由は経済的な理由
二番目は高校で勉強する理由が見出せない、という事だそうな。
2011/08/05 (金) 14:33
思い込みの激しい人程、人に対して、決めつけてかかる!
2011/08/31 (水) 8:31
ピアノの演奏活動をしている人に、「曲を見て欲しい!」と頼まれて、モーツァルトの曲をレッスンをした。「好きで、よく弾くから!」という事だそうな。
右手がscaleを演奏している時に、左手が8分音符のauftaktで次の小節の頭が4分音符のTonikaになって、Sequenzで繰り返すpassageの所を、auftaktの8分音符を少し強めにして、拍頭の4分音符を弱く短めに演奏すると説明したら、了解不能で絶句していた。
日本の音楽教育では1拍目は強拍で強く演奏すると習うもんね。ハッ、ハッ、ハッ!
Auftaktは強く長めに演奏して・・・何て言ったら、そりゃ、パニくるわさね!
2011/09/14 (水) 13:23
うとうとと、ベッドでしていたら、突然チェンバロのAの音が聞こえてきて、びっくりとして目が覚めた!
これが老人性の痴呆の前触れの「幻聴」と言うヤツなのか?
Aのピッチがなかり低く鳴ったので、435ぐらいのbaroqueピッチか?
それとも、隣の部屋のCembaloの弦が切れたのかな?と思い直して、隣の部屋に行ってみたのだが、Cembaloは弦も切れてはいなくて、何も問題は無かった。
いよいよ本物の幻聴ではなかろうか?一日、欝になってしまった。
2011/10/02 (日) 10:08
加齢臭の話
昨夜、バイクで走っている時にヘルメットの中が蒸れるような感じで髪の毛が臭っているような感じだったので、今日は髪の毛も洗ったし、服も下着から上まで、全部新しくしたのに、まだ嫌な臭いがフッとする。
これが加齢臭(愁)なのか、それとも老人性の統合失調症の幻臭なのか?
(冷静によくよく考えてみると、臭いのする場所が限定されているのに気づいた。
ハイツ(自宅マンション)の玄関を出た所や、バイクで路地を曲がった所などだ。
夜なので、花は見えないのだが、何かの木から臭っているらしい。
で、教室の先生に尋ねると、「それは金木犀の木の臭いだよ!とても良い匂いだと思うんだけどな??」と言われてしまった。)
2011/10/17 (月) 3:34
「どうしても覚えられない
加齢臭の木の名前・・・
山茶花??もくれん??山カガシ???」
「キンモクセイだよ!」
どうしても加齢臭に感じてしまうので、もう一度、先生に訊ねた。
「この匂い、臭くない??」
昔、トイレの芳香剤に金木犀の香りを付けたら、その匂いがトイレの匂いと思われるようになってしまったので、それ以降はまた別の花の匂いを付けるようになったそうな。
ジャスミンとかね。
「なるほど・・・!?」
2011/10/15 (土) 14:54
人は自分の熱意の喪失が原因で、業績や売り上げが落ち込んで行く場合には、リストラや統合縮小整理で業務の危機を回避して、その状況を乗り越えようとする。
仕事に対する情熱(リピドー)が失われた時には、その人にとって、業務を展開させたり、拡大させてより多くの収入を得る為の努力をする事が、辛い、きつい、かったるい、からなのだ!
元々が中小の会社は、だんだん働き手の従業員を失って、最終的には、家族経営になって、最後に自分一人で働らかなければならない。
80をすぎて尚、電信柱に登って働いている老人を見た。
大企業の場合は、見込みがあれば、他の優良企業に乗っ取られてしまうか、見込みがなければ、あっさりと倒産するかの二つである。
2011/10/31 (月) 4:37
一つの事案に対して、文句を言うのは誰でもやる事だ。
その文句を、「文章にして提出しろ!」と言った時に、それを、文章にして提出出来る人は50人に一人もいないのだ。
2011/11/05 (土) 17:08
オリンピックで人を感動させたとしても、それはスポーツであって、芸術ではない
その時には人を感動させる事が出来たとしても、次の時には、その感動を誰も覚えていはいない。(データとして残ることはあったとしても・・・)
音楽をスポーツと勘違いしている人達がいる。
より高難度の曲をより速く演奏する事が人を感動させる事だと思い込んでいる人達である。
人と競争をして、コンクールに入賞する事が、プロになる道であると、思い込んでいる。
「幾つものコンクールに入賞を果して、海外に留学をして、そこそこ有名な演奏家に弟子入りをして、苦節〜年、やっと帰国して来た。それなのに、どこからも演奏会のオファーがかからないのだよね。不思議だ!」・・・・じゃ、ないのさ!そんな無駄な努力をしても、プロにはなれるわけはないのだよ。
それは、音楽を表現する技術を学んで来ただけで、音楽を学んで来た分けではないからなのだよ。
私が幾ら、口を酸っぱくして言っても、人はそれが分からない!
2011/10/31 (月) 8:17
オケ練習をしている時に、「そこはたどたどしいよ!」と言った。
ふと、言葉が通じているのかな?と疑問に思って、「たどたどしい」という言葉の意味を、改めて確認してみたら、小学生はおろか、中学生の生徒達にもわかっていなかった。
危ない、あぶない!
2011/11/10 (木) 22:01
夢は叶えてこその夢。
叶わぬ夢なら妄想と言う。
2011/11/13 (日) 5:59
コンクールに入賞させるのは、すこぶる簡単な事である。
それはコンクールや音楽大学の入学試験が減点法であるからである。
一つの市や県を単位とするのではなく、全国大会や関東ブロック等の審査員の水準は高いので、その審査員達の審査する基準を予め読む事が出来るからである。
アカデミックな論理性に基づいた演奏上のチェック項目を、練習の課題として、予め生徒に与え、それらの課題を何パーセントまでクリアー出来たかで、100点満点の得点が生徒本人にも分かるので、コンクールでは、何位になるかの予測がちゃんと出来る。だから、コンクールを受ける生徒が夢を見る事もないし、親が自分の子供を過剰に評価する事もない。
私は、原則として、週一の定形のlessonの他に、追加のレッスンはしていない。与えられた課題をちゃんと練習して、演奏出来るようにするには、通常のlessonで、私から指導された内容を、きちんとクリヤーすれば良いだけだからである。
しかし、困った事に、県や市単位のコンクールでは、そうは行かない!
音楽の知識も、実力もない、権力だけに頼ってきた、地方の実力者と言われている先生の、コンクールでの評価は、その先生の感覚や情緒、はたまた縁こんで決まる事がほとんどだからだ。
だから、地方予選を突破して、客観的な評価が期待出来る県以上のブロック大会や全国大会に進むには、地方予選で素人目にも分かる程、ずば抜ける必要がある。
昔は、日本のコンクールで一番の権威があるコンクールと言われている、「毎日音楽コンクール」
ですら、コンクール以前に、予め一位になる人は決まっていた。
私の作曲の先生であるPringsheim先生が、「毎日音楽コンクール」の審査委員長を依頼されて、楽譜の審査で、ある人を一位に推薦しようとしたら、コンクールの役員の人が慌てて飛んで来て、「先生、一位の人はもう決まっていますので!」と言われて、「びっくりしてしまった。」という話を、師匠から聞いたことがある。
コンクールについては、私の師匠と全く同じ話を、指揮者の岩城さんからも、それ以外のコンクールの審査員をした事のある多くの人達が話をしている。
さすがに、今日では少しは改善されたのだろうと思うのだが・・・・?
2011/11/29 (火) 6:06
ヨージーの法則
人生は全く同じように歩いて行っても、考え方次第で全く別の場所に着いてしまう。
その考え方では、そこにしかたどり着かないのだよ!!
百人が百人共、全く同じ間違いをして、同じ結果にたどり着く。
みんながそこに行くには、その道しかないと思っている。
正しい道を教えても、誰も信じようとはしない。
そして、次の百年もまた、人は同じ間違いを繰り返えす。
2011/11/29 (火) 6:17
ヨージーの法則
実力を持たない人は、空威張りをする事で、自分を大きく見せようとする。
(以前も全く同じ事を書いたのだが、外で仕事をすると、本当に会いたくない人種の人とcommunicationをしなければ、ならなってしまう。その、本当に会いたくない人種の人達とはセミプロの人達である。)
当たり前の事ではあるが、自称セミプロという人はいない。
日本では、音楽で・・・、それも、クラシックで、生活をしている人は原則としていない。
プロのオケマンや、音楽大学の先生達を除くとほんの一握りの人達が音楽、それもクラシックだけで生活をしている。非常に限られた人達であり、人種でもある。
ヨーロッパのように、音楽だけで、しかもクラシックだけで生活が出来るというには、日本は音楽家達には、とても厳しい環境である。
日本の音楽界を支えている人達の大半は、主婦層であろう。生活は当然ながら主婦としての生活なので、音楽がたつき(⇒たずき、方便・活計)の糧になることはない。
生活は主婦の仕事なので、当然、音楽は事の次いでにしか、過ぎない。旦那の都合で、あるいは子供の都合で、音楽の予定は未定である。
結婚するまでは音楽が全てで、音楽にかけていたとしても、それは過去の話である。
幾ら技術が優れていたとしても、何かが足りない。音楽が甘いのだ。ストイックさがないのである。
所謂、セミプロと呼ぶ人種は、その実力のなさを、空威張りをする事で補おうとする。
やたらと、「誰々の門下生である」とひけらかす人達も多く見受けられる。
その先生が幾ら優れていたとしても、主さんが優れているわけではなかろう。その先生が、主さんの事を認めてくれたわけでもなかろうに。
ストラディバリ・シューレの中には、先生よりも高い値段の付く楽器を作る弟子もいるんだよ。
本当のプロは、先生をそんなに安くは使わない。ましてや、「私の先生の先生は・・誰それで・・」なんてことはいわないのだよ。
私もおくびにも、「私の先生であるGenzmer先生の先生はHindemith先生で・・」とか、「もう一人の先生であるPringsheim先生の先生はGustav Mahler先生で、同門下生がBruno
Walterという名指揮者で、双子の妹さんの旦那がThomas Mannという大小説家だ!」なんて言う事は、言わないよ!
そんな事をいちいち言わなくとも、私自身も、それなりには名前は売れているからね。
ハッ、ハッ、ハッ!
一般の人達は俺の名前を知らないって??そりゃ、そうさ!一般の人達が知っている音楽家の人達は私が知らない人達だからね。
マスコミが作り上げた音楽家達は、私の舌には合わないのでね。
美味しくないのだよ!
求めているものが違うからね。
大家の演奏は本当に良いものだ!
何度聴いても厭きない。
ヨージーの法則
本当にプロといわれる人と会うと、皆、腰が低い。
それは、彼らが、自分を偉く見せる必要がないからである。
2011/12/14 (水) 23:31
10回練習して弾けないのを100回練習して弾けたとしても、それを弾けるようになったとは言わない。10回の内に、たった1回間違えたとしても、本番の時には、その間違えたたった1回が出てしまうのだよ。
その分野に全くの素人が、その分野で努力し極めようとしている人に対してアドバイスをしているのを見かける。勉強や努力をしている子供自身と違い、両親はその分野の素人に過ぎないのだから、その素人のアドバイスを感謝して、素直に受け入れる。
そして、その子供は、いつの間にか、普通の素人になってしまう。
まあ、よくあることだけどね。
私がアドバイスを受けるのは私が尊敬出来る人からだけである。
絶対に自分よりも下のlevelの人のアドバイスは受けない。
それは人生の鉄則である。
素人がプロにアドバイス出来る事は何もない。
それは、住んでいる世界が最初から全く違うからである。
論文のネタ集 追記
2009/07/26 (日) 7:37
ヨージーの法則
人はアドバイスを受ける事に慣れてくると、自分に都合の良いアドバイスを求めてくる。
あたかも安売りの洋服のように
2009/07/26 (日) 3:18
ヨージーの法則
子供は(それを親が望むと望まなかろうとにかかわらず)親の望んだようにしかならない。
2009/06/22 12:16
ヨージーの法則
人の振り見て、我が振り・・・、直さない!
2011/12/03 (土) 22:19
ヨージーの法則
人間は時間が経てば・・・、年を取る
この当たり前の事を、皆どうして分からないのか?
今しか出来ない事は沢山あるのに・・。
2011年11月5日土曜日 17:08
音楽はスポーツではない
幾ら技術を磨いても、それで人の心を感動させることはない。
オリンピックで人を感動させたとしても、それはスポーツであって、芸術ではない
2011年11月29日火曜日 6:17
ヨージーの法則
本当の実力のない、所謂、セミプロと呼ばれる人種は、とかく威張りたがる。
実力のなさを威張る事でカバーするからだ。
それは、虚勢を張る、とか、虎の威を借る狐、とか言われる。
プロは、腰が低い。
自分を偉く見せる必要がないからである。
2011年11月29日火曜日 6:06
件名: ヨージーの法則
人生は、全く同じように歩いて行ったとしても、その人の考え方次第で、その人の望んだ目的とは全く別の場所に着いてしまう。
つまり、そういった考え方では、そこにしかたどり着かないのだよ!!
百人が百人共、全く同じ間違いをして、同じ結果にたどり着く。
それなのに、いまだに皆が、「そこに行くには、その道しかない。」と思っている。
正しい道を教えても、誰も信じようとはしない。
そして、次の百年もまた、人は同じ間違いを繰り返えす。
これを凡夫の性(サガ)という。
2010/11/04 (木) 2:38
ヨージーの演奏の法則
ペダルを使い過ぎる人は、自分に嘘をついている人です!
日本人のピアニストは、pedalの踏み過ぎに対して鈍感である。
曰く、音の濁りに対して嫌悪感を持っていない。そういった国民性でもある。
また、日本人は遠音の効く音と、傍鳴りの音の違いが分からない。
2012/04/06
手に職を持つ
私たちが、「音楽の勉強は手に職をつけることである。」と、父兄に説明をすると、「手に職なんて、社会に出てから勉強すればよい。まずは、学力だよ」という親がいたりする。
社会人になって、1週間や半年ぐらいの研修で身に付く「手に職」と言った物、そういった物を「手に職」とは呼ばないし、ましてや技術とも呼ばない。
資格と職を勘違いしているのだ。
つまり、資格が運転免許所有であったとしても、それを職とは呼ばないのである。
「手に職がある」ということは、人の出来ない技術を身につけているということである。
人に出来ない事が出来るから、その人に仕事が来るのに!・・・である。
2012/04/06
若いということが
音大を卒業した女性たちが、自分たちの若さで、仕事が来ているのに、それを、自分の技術力に対する評価であると勘違いをしている人たちがいる。
しかしながら、曰く、「若さ」とは、若い間に頃は、それ自体が「技術」であり、「手に職」にもなる。
しかし、それはあくまで、若い年齢の間のみである。
そこに若い女性たちが危機意識を持たないのは、その女性たちが若さを失う前に早々と結婚をして、職を辞してしまうからである。
だから、若い女性たちにとっては、「若さ」が「手に職」になる間だけで十分なのである。
2012/04/07 01:30
今日は気象庁が桜の満開を宣言した。しかも、今夜は満月である。
なんと言う事であろうか!?
絶好の夜桜日なのだが、テレビも周りの人も、誰も気にしてはいない。
不思議だ!
2012年6月20日11:40
型に至は易く、型よりいずるは難し
多分、世阿弥の言葉だったか?
人は、自分の作ったルールに縛られて、そこから抜け出せなくなるって事だよ。
今の日本は、しなやかさが足りないのだよ。
競争する教育は挫折を生み出すだけではなく、独創性も生み出さない!
何故なら、真に独創的なものは比較対象されるものがないからである。
2012/06/11 (月) 15:32
観察力・分析力・判断力・構成力
日本の教育は、基本的にコピーと記憶だけである。上記の能力は上の指導の妨げになるからである。上記の能力の優れている生徒は先生の言うことを聞かない。
アハッ!
2012/06/14 (木) 23:16
レガートシモ奏法と探り弾き
Legatissimoと探り弾きは、行きと帰りぐらいに違うのだが、自分の誤った奏法を正しい奏法で弁解しようとする。阿呆(あほ)らしい!
2012/07/01 (日) 2:34
人生が行き当たりばったりの人はお稽古事には向かない!
かく言う私もかなり行き当たりばったりの性格である!
という事で行き当たりばったりの性格を逆手に取って、怠け者の勉強方法というのを作ったのだが、本当の怠け者には、そういった勉強方法を学ぶ事すら、かったるいらしい!
2012/07/31 (火) 13:46
芦塚メトード
「練習しなくても上手になる」では困る
2012/09/01 (土) 9:15
出来ないモン!
今の子供達はやりもしないで、「出来ないモン!」 と言うのが口癖になっています。
「出来なければ、誰かがやってくれる…!」」 そういう普段の生活のパターンが口癖になって身に付いてしまっているのです。
次の会話は芦塚先生が、「出来ない!」 と言う事が口癖になっている子供とお話しをしている風景です。
「出来ないモン!」
「出来るか出来ないかは、やってみないと分からないでしょう?」
「やったけど、出来なかったモン!」
「出来なかったのを、積み上げて行くと出来るようになるのですよ!
ピアノやヴァイオリンを習い始めた時には、こんな難しい曲が弾けるようになるとは思わなかったでしょう?
出来ないことを積み上げたから、出来るようになったのだよ!」
芦塚先生の親や先生達へのお説教です。
子供達が出来ない事を出来るようにするには、ただやりなさいと言うのでは、駄目です。
子供達が出来ない事が出来るようにするためには、課題の与え方にステップが必要なのです。そのステップがならだかなら、子供達は行き詰まる事はありません。そのステップが急勾配ならば、そのステップの間に、更に幾つかのステップを作って、勾配をならだかにしてあげればよいのです。それを教育というのですよ。
たから芦塚メト−ドでは無理なく、子供達が自然にいつの間にか出来るようになっているのですよ。
それは子供達の前で一生懸命に道を均している先生が居るか、居ないのかの違いなのですよ。
2012/09/01 (土) 11:36
芦塚メト−ドと無駄な
芦塚メト−ドの一番大切なポイントは無駄な事を省くと言う事だ。
決められた時間だから、決められたように、学習しなければならない!と、いったような、教義優先の教条主義からの脱却である。
儒教的な考えでも、やりたくなくても、いったん決められた事はきちんと守る事をよしとする!
芦塚メト−ドはそうではない!
常に万全を期し、万全に至らない時には、万全になるように、そのステップを企画するのだ。
それだけ、完全に準備したとしても、間違いを犯すことがある。当然、そのリスクに如何に対応するかが、芦塚メトードなのだ。だから、失敗を想定して対応も考えて、企画を練るのだ。
無駄なオケ練習はしない!
練習で、一人一人の技術が足りないのなら・・・、練習が足りないのなら・・・、その分、分奏で足りない分の練習をしなければなりません。
分奏が必要なら、分奏を積み上げなければなりません。
それぞれのパートがちゃんと演奏出来ていないのに、私がオケの指導をしても、(T子のレッスンの時のように)それが出来ていなければ、全く同じ事を全く同じように、半年間もいい続けるだけなのだから!
・・・それでも、毎回、レッスンの度に、全く初めて聞いた事のように、半年間も同じように、レッスンを受けていたT子も凄い!
2012/09/16 (日) 0:56
論文のネタ集
私達が、良い意味での「アマチュアイズム」と言う言葉を口にする時、決して「アマチュアイズム」その物を賛美している意味ではない。
よい意味の「アマチュアイズム」という意味は、例えば、音楽の美しさに始めて感動した時や、初めて音楽の勉強をした時の、一途で一生懸命に練習に邁進した時の気持ちを忘れないように、という意味であり、所謂、初心忘るべからずと言う事であり、決して音楽を趣味的に軽く捉える・・と言う意味ではない!
高村光太郎「道程」
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
名言として知られている言葉である。
ピアニストになろうとする若者が一生懸命勉強をしている姿をよく見かける。
私の場合には、そういう人を見ても「なんと効率の悪い事をしているのであろう。」としか思わない。
人のやらないことをやれば、100%確実にプロになれるからだ。
しかし、そういった誰でも分かる事を誰もやろうとはしないのか?
それは簡単な理由からである。
それは、道がどんなに険しくとも、或いは、遠くとも、人が歩いた道であれば、絶対的な安心感が人の心にあるからである。
そして、その道を歩むことで、目的地に到達することが出来ないとしても、道を踏みはずすことの不安感よりも、その安心感の方が人の心には優先するからである。
人のやっていないことをやるということは、自分がどこを歩いているのかわからない、やったとしても、達成出来るかどうかすらわからない。
そういった絶対的不安が優先してしまう。
それが、「人のやっていないことをやる」という、極々分かりきったことを「誰もやらない」、という事につながって行くのだ。
人は、成功の報酬を努力の対価として考える。つまり、苦労すれば苦労するほど、得れるものは大きいと考えるのだ。しかし、全く勉強しなくても、東大にトップで入学する人もいるのだ。言い換えると、どんなに頑張っても東大に入れない人の方が多いのだよ。
逆説的にはなるのだが、一つの公式を言うとすると、「レベルが低くなればなる程、勉強している人が出来る範囲は広がってくる。」ということだよ。
逆の言い方をすると、非常に高いレベルでは、(ノーベル賞の研究者等のレベルでは)、遊んでいる人の方が多いのだよ。つまり、勉強では未来の技術は作れないという事なのだよ。当たり前だろう?勉強は人のやった事を学ぶ事で、研究とは人のやっていない事を調べる事だからだよ。そこで勉強をするのは、勉強して何がまだやられていないか、研究されていないかを探すことだからね。やった事を研究するのではないのだよ。そこの所が、一般の人にはなかなか分からない。
でも、前の話とは一見すると矛盾するようだが、本当に全く勉強しなくて、東大に入れる人はいない。つまり、勉強の仕方が人と違うのだよ。だから、勉強していないように、・・遊んでいるように見えてしまう。
その道が、どんなに平坦で、極々短い道のりであろうと、人が歩いたことのない道を歩まなければならないことは、多くの人に、限りない不安感を与えてしまうのだ。
しかし、そういったことも、日常的な馴れにすぎないのである。
殆どの人が、未知の事を知ることを嫌がる傾向にある。パソコン嫌い、新しい物を嫌う人達にも、同様の性格を見てとることが出来る。
一般の人たちが、自分たちの子供を、一流の塾に入れて、一流の中学や高校、そして大学に入学させて、一流の企業に入社させれば、その子供は勝ち組であり、絶対的な幸せを勝ち取ることが出来ると盲信している。
音楽を志す若者たちの大半は、その一般の人達の考え方の「音楽version」であるにすぎない。
つまり、プロのピアニストになろうとしたければ、一流の音楽大学を卒業して、海外に留学し、在学中から数々のコンクールに入賞をする。それで日本に凱旋して大きなホールで演奏会を2,3度すれば、将来は音楽家の人生が待っていると思い込んでいる。というか、それ以外のプロの演奏家になる道筋は無い、と思い込んでいるのだ。
殆どの、音楽を学ぶ人達がその道を歩むのだが、現実的にはその道筋で、一流のプロの演奏家なった人間はいないと言っても過言ではない。
つまり、Professionalと呼ばれる人と、アカデミズムの教育とは、全くの別世界であるからである。プロであるための絶対条件はその人のi dentityであり、人と同じ事をしなければならないアカデミズムとは間逆の立場を呈する物だからである。
アカデミズムに犯された人達は、間違えないで完璧にコンピューターのように演奏出来れば、それでプロの道が開くと思い込んでいる。
プロの世界は、そんなに簡単なことではないし、求めている道筋が全く違う。
大いなる勘違いである。
このことは、私のホームページの論文の中に何度となく述べ掲載して来たので、ここでその話を再び蒸し返すことも無いであろう。
いやしくも、プロと呼ばれる人間を目標にするのであれば、人と同じ事をして、プロになれるわけがないと知るべきである。
また、人と同じことをやらなければ、安心感が得れないようであるとするならば、プロになるのは所詮無理な話である。
プロはi dentityが全てであるからである。
2012/10/23 (火) 16:23
怠け者の仕事術(仕事齧り虫)
仕事は派生した時に必ず一度かじっておく事
⇒仕事を箇条書きにする所までは殆どの人達が出来るのだが、それが不思議なことに仕事を終わらせるという事へとはつながらない。
多くの箇条書きが保留のままで終わってしまう事が多いのは何故か?
その理由は簡単である。
それは仕事をタイトルだけを、箇条書きにしてしまうからである。
仕事が出来る人の仕事術のコツは、「その仕事は何をどうしたら終了になるのか?」という事が明確に把握されているからである。
反対に、仕事が出来ない人はその仕事の中身を分からないままに保留にしてしまうから、なかなか仕事として、立ち上がらないのだ。
私が以前作った仕事のprojectの用紙は、その手順をペーパー上でフローチャートでsimulationするための書式だ。
これはあくまで自分が仕事をしっかりと把握するために、作られた書式ではあるのだが、人に自分の仕事の一部を担当させたり、或いは仕事自体をそのまま任せたりするためには、その仕事の手順を正確に相手に伝達しなければならない。
人に仕事を正確に伝達するためには、自分自身が、ちゃんと仕事の方法論と手順を把握しておかなければならないのは当然である。
当たり前の事のように思われるかもしれないが、仕事には、その中で派生したサブ・仕事一つ一つの手順がまた必要になってくるので、他人に説明することは、自分が仕事をこなそうと思っているほど、簡単な事ではない。
仕事をより具体化させ、現実的な仕事として派生させるためには、一度、ほんの少しだけその仕事を齧っておくと、その仕事に必要な道具や資料、どういう形で終了させればよいのか、そういった事が具体的に分かる。
その状況を理解出来た状態で仕事を保留にすると、何時でもその仕事を続ける事も、完成させて終了させることも出来る。
一度、齧っておくことは、その仕事の全貌を掴むという事でも有効である。
2012/11/29 (木) 0:01
一生懸命に努力して良い学校に入ってコツコツ勉強をしたからと言って、その先に成功が待っているわけではない!
一番大切な事は、目標に向かって闇雲に努力するわけではなく、その目標は正しい目標なのか、その努力は正しいのか、正しい手順で努力をしているのか?