粋筋の着方

昔、子供のころであったが、その当時、祖母が東京で有名になった着付け教室の先生に対して、「あれは粋筋だから、そんなの着付けを若い人に教えてはだめだ。」と憤慨して嘆いていたのを憶えている。粋筋の着付けとは、首の後ろのうなじの部分をさげて見せたり、胸元を開き加減にして、女っぽさ(色気)を強調する、本来的には芸者や花柳界の女性達の着付けであったのを江戸時代の後半になって若い町家の娘達が真似をしたのが始まりであるそうな。それに対して武家の着付けというのがあるそうで、いつも、ばあちゃんが着ているように、首はピリッと立てて(確かに)胸元もピッという感じにしまっていて、一日中着崩れない。着なおしなどしないのだ。さすがである。テレビなどを近頃見るにつけて、もう武家の着方などという着方自体が死滅してしまったようで、テレビに出てくる武家娘も全てばあさんが嫌っていた、粋筋の着方になってしまった。

さすがに髪形は、まだ町家と武家の区別はついているようではあるが、それも近頃はだいぶ、定かでは無くなってきた。

       
       このばあさんは、15,6歳から女学校の教官をして、(専門は源氏物語の箒木だそうで、勿論生徒は皆年上で)九州の弁護士会長の奥さんでその後満州に渡って・・・・、云々、云々で、14歳の頃は泥棒をなぎなたを持って追っかけまわした、と言う武勇伝なども数々あって、色々話の尽きない人ではある。2,2,6事件の時には総理官邸の隣に住んでいて、塀を乗り越えてたくさんの人が逃げてきた、とかいう話もある。明治16年生まれで、90,4,5歳まで生きたのだが、最後のほうは年齢を多く詐称するのでよく分からなかった。英語やフランス語はぺらぺらだそうで、80歳ぐらいのときに英語のジョーク集を置いていたら、その後、「とても面白かった。」と言って返してくれた。僕は英語は苦手なんだよね。


江戸時代の女性

美人とされる女性のタイプは時代によって変わる。平安時代の女性は蟇目鉤鼻、いわゆるおかめ顔が美人とされていた。(ホンとかいな??)江戸時代に入ると、柳腰の細おもてが美人とされた。というのも、ばあちゃんによると通説であるそうな。

本当は、武家の嫁の役割はいかにたくさん丈夫な子供を産むかで嫁の価値が決まった。産まず女(石女)は去れというという言葉も、この時代に生まれた。戦国時代が終わって、時代が安定して、武士の社会も世襲制度になって、如何に丈夫な男の子を生むかという事が、武士の男達の課題になったわけである。という事で、武家社会においての理想的な女性のタイプは、腰の骨盤がしっかりしていて股上がしっかり開いていて、足腰が丈夫であり、かつおっぱいがでかい女性である。つまり人間のホルスタインである。もしも(当時は医療や、食糧事情などが良くなく健康を害することも多かったし、女性はお産によって死亡するケースが非常に多かった。)というわけで、次男、三男は、長男がもしものときのスペアーとしてとても大切であったし、一般に言われているように一見不必要と思われる女性も(確かに農家では女性は働き手を生む役割しかないので、生まれるとよく間引きされたり、非常のときの売る商品にされたりしたが)武家ではホルスタイン系の女性は良い子を産むとして高い地位の家から嘱望されるので、結果的にその家の地位の向上にも役立った。逆に、一般に江戸時代の美人とされる柳腰、細おもての女性は、腰がしっかりしていない分だけ出産率が悪く、出産時や産後に死亡することも多かった。という事で、商家にとっては財産分けなどの心配が少なく、年をとってまでもいつまでも養わなければならない、という老後の問題も少なかったので財産を減らしたくない商人にとっては極めて有難かったわけである。(僕の友人の会社では、事務や雑用の女の子を有名女子大学の卒業生から雇っている。理由は、プライドが高いからお茶酌みではでは納得せず、半年や1年で辞めてしまうからだ。メリットは直に辞めるから給料アップの必要も無く、有名大学のお嬢さんだから、マナーなどの接客を仕込む必要も無い。お客からの評判は会社に来るたびに、いつも若い子が居るので「今度はどんな子かな?」と楽しい、という事で、とても評判が良いそうだ。

 

いつの時代でも、その時代の価値はその時代の反映にしかならない。女性の価値観もご他聞に漏れない。

そして今の時代の女性は・・?