教育について
Essay
[思い込み]
悪くいうと、思い込み
良い言葉でいうと信念
アハッ!
[無駄な努力]
無駄な努力を積み重ねても、力にはならない。
パソコン度同じで、間違いが積み重ねられたに過ぎないからだ。
一旦間違えると、同じ数だけ正しい努力をしても、(±)0にしかならないのだ。
無駄な努力を幾ら積み重ねても、その努力が成功を導き出す事はない。
[子供が親に嘘をつくと言う事]
親が子供を叱ったり、怒ったりするには、その子供の成長の段階に応じての対応がある。
よく「子供は嘘を言う。」という大人がいる。
また、子供が嘘をついた事で、天と地がひっくり返ったように、大騒ぎをする親もいる。
しかし、中、高生の嘘と、小学生の嘘は基本的に別のものである。
小学生の低学年や中学年の場合には、子供に嘘をつかなくても良い環境を整えてやれば、子供はウソはつかなくなる。
私がまだ、大学に指導に行っていた若い頃の話だが、大学の生徒が就職していた小学校で、4年生の子供が近所の文具店で万引きをした、という事件があった。全校の先生達が集まって侃侃諤諤、その子供をどうするか会議をしていた。偶然、私の生徒の教育指導にその学校を訪問していた時に、その話の相談を受けて、校長に言った。「あなた達は子供の裁判をしているの?それとも教育をしているの?」
その小学校の校長は、私の言葉を聞いて、「私はとんでもない間違いを犯すとこでした。」と反省し、親や子供に対しても、罪と罰を与えるのではなく、子供の教育という観点から、説諭に専念する事になって、八方が事なきを得た。
子供は面白半分に、罪を犯すことがある。しかし、それは遊びの延長であり、話をすれば、同じ間違いは二度と犯さない。その時に、子供に如何に正しく、子供が理解できるように話すかが、要である。決して、頭ごなしに、「お前は悪い!」等と権力や常識論を行使してはいけないのだ。
教室で子供を指導していると、数年に一度ぐらいの割合で、子供が思いもかけない悪さをする事がある。
しかし、教室の先生達は、その時には頭ごなしに生徒を叱ったり、親を呼び出して、説諭したりする事はしない。まずは、先生達で相談をして、子供が悪戯をした本当の原因を追求する。それが悪ふざけなら、子供にお説教をするのだが、それはただの話としてするだけであり、子供を叱る事はしない。・・・つまり、叱る必要がないからである。
教室での悪戯の原因が、本当は家庭の教育のストレスによる場合もよくある。
この場合は、当然親を呼び出して、教育上の相談をする。でも、殆どの場合には、親は自分達が子供のトラブルの原因である事は認めようとはしない。それが、家庭の方針であるからである。例え、子供の教育上の問題であったとしても、教室は、家庭の方針にはそれ以上は介入する事は出来ない。それはそれぞれの家庭の問題であるからである。
子供は親を選ぶことは出来ないからである。
当たり前至極の事ではあるが、教育に自信がある両親は、基本的には教室のアドバイスは聞かない。
教育に自信のない親は、教室のアドバイスを良く聞こうとする。だから、教育は上手く行く。
[勉強について]
本当は、勉強は楽しいものである。
勉強の楽しさを指導すれば、例え学校の勉強や塾の勉強でも、勉強をしないという事はなくなる。
子供を競わせて、競う事で勉強の効率を上げようとするならば、必ず、挫折をする事になる。
今の子供達の学業のように、勉強が子供達の身になることはない。
そこをいくら大人の理屈で厳しくしても結果は見えている。
「楽しく」と言う意味は、勉強に興味を持たせるような指導をすると言う事である。
それは子供の学習能力ではなく、指導者の勉強しだいなのである。
ノルマに追われて、curriculumをこなすだけならば、それは本当の勉強とは言わない。
[子供達とのcommunication]
H先生が引越しのために新しい大手の教室で指導し始めた時には、お産でやめられた先生から生徒を引継いだために、中学生や高校生の生徒達は、そういった教室にありがちな、基礎がないままに、弾きたい曲だけを弾いてきた生徒達が、ほとんどであった。
小学生なら、まだ何とかなるのかもしれないが、中、高生共なって、耳パクで何とか、そこまでのlevelの曲を弾いてきたとしても、そのままの技術では、もう、次の選曲をすることは、技術的に無理になってしまった生徒達である。
そういった生徒達を、そのまま指導すると、技術的な行き詰まりから、片っ端から教室をやめてしまうので、H先生から、そういった生徒を指導したら良いのかという相談を受けた。
まず最優先の課題は、生徒たちの技術を指導し直すにしても、まず子供達が教室をやめないで、lessonに通い続ける事である。
そのアドバイスとして、H先生の得意技の井戸端会議を利用して、まず子供達の話相手にならせることにした。
中、高生の話相手になる事・・・、しかし、これは思う程易しい事では無い。
子供の話相手になるには、話をする時にやってはいけない絶対の条件がある。
@としては、H先生は話好きではあるが、先生が話のイニシアチブを取ってはいけない。
あくまで、子供の話を聞く・・ということに徹しいないと、子供は話をしてくれなくなるからである。
女の子は中学生の時期になると、もう、性的な話も相談の中に飛び出してくるから厄介である。
それを目上の大人として(或いは先生として)、頭ごなしに注意すると、子供はもう二度と腹を割っては、相談をしてこなくなるし、親に言おうものなら、それこそ一家心中でもしかねない大事件になってしまう。
ピアノの指導どころではなくなってくるのだ。
Aの場合に、先生として、注意しなければいけない事は、子供とした話を、親に報告しては絶対にいけない。
何故なら、現在の子供の問題を作っているのは、親自身、家庭の問題から来るのであって、子供の、問題の原因を作り出しているのが、親自身である事が殆んどだからだ。
親に子供の抱えている問題を話す前に、父親、母親が家庭に抱える問題を充分に克服して、子供の扱いや、対処法をマスターして、子供とのcommunicationが出来るようになってからでなければ、子供から受けた相談を、ストレートに親に報告する事は出来ない。
しかし、子供の抱える問題が大きい場合、教育者としてはそのままに放置しておいてはいけない。
さて、どうする?
答えは、これも色々な段階の大切さを把握する事が要なのだ。
第一段階は先生と生徒の信頼関係を作る事が最優先である。
そこまでは一切批判がましい事を言ってはいけないし、親に告げ口をしてもいけない。
我々のように教育の専門家と連携をとって、次の対処の準備をすべきなのだ。
信頼関係が樹立したとしても、直ぐに男女の交際などの直接的な問題を持ち出してはいけない。音楽などの指導を通じて、本当の物の考え方や、人間のあり方などを指導していくのである。
子供の興味の中心が音楽や人生に移ってくると、自然に異性よりも音楽の方がよくなっていく。
兎に角、大人の目の届かない所で犯す問題は怖い。
小学生の4年生5年生でも、いたずらで始まったネットのいじめで自殺した子供もいる。
そういった悩みを子供は親や先生にも相談出来ない。
何故なら、叱られる事が、目に見えているからだ。
親や先生は、子供を正道に戻すために厳しく叱る。
しかし、今度は叱られた事が原因で、自殺する子供や、大人に反発をして、取り返しの出来ない所まで、道を踏み外す子供も出て来る。
親や先生とのコミニュケーションが成立していない時に、何を注意しても子供は叱られたとしか思わない。
そして、一番大切な相談を、未熟な(その子供と同じぐらいのレベルの)友達に相談する。
親や先生自身が子供とのcommunicationを計ろうとしなかったと言う事実を無視して、親も学校の先生達も結局「そういった態度は、おくびにも見せなかった。気がつかなかった。」と言うのだ。
「子供が自分の方から自発的に話そうとしなくなれば、子供の全てを親(先生)が掴む分けにはいかない。」・・・と弁解する。
しかし、子供が話さなくなった原因、それは子供の話をまず聞こうとはせずに、「だめだ!駄目だ!と、頭ごなしに教育してきた結果であろうが・・・!
[火に油を注ぐような教育]
今の子供達は、小学校に行く前の、かなり早い時期にお仕着せ教育の影響を受けて育つ。
その結果、幼少期の心の発達に最も大切な、物事に興味を抱くことがなく、短絡的に結果だけを求めようとする。
問題集などをやっていても、回答だけに興味を示し、「なぜそうなったのか?」或いは「どういう理由出そうなったのか?」という所には興味を示さず、次の問題の事しか考えない。
その説明をしようとしても、子供達は聞こうとはしないのだ。
塾に行く前の子供でさえそういった状況なのに、*や***に行って、条件反射的な教育を受けた場合には、もっと頭が硬くなって、長期的な勉強や応用力に富んだ柔軟な考え方が出来なくなってしまう。
親が短絡的に学校の成績を上げることだけを目的とした場合には、結果としてお馬鹿な子供を作り上げてしまう
[面接に来た先生へのテストとして]
「教える」と云う事と「育てる」と云う事の違いを述べて下さい。
[全幅の信頼]
(先生方が父兄との信頼を築くためになすべきこと)
全幅の信頼という言葉がある。
それは先生の人間性を認めて信頼する事である。
しかし、普通は社会通念を信じて、最初から先生の事を信じていない父兄が多い。
(と言うか、殆んどの親がそうである、と言うか・・?)
例えば、生徒の親が、他の父兄に「娘を音大に進ませるのだったら、N響の団員を知っているから、そっちの先生に通わせるし、芸大の先生なども紹介してあげるから。」とか平気で教室の中で公言している。
その親の言う事を他の父兄や、それどころか教室で指導している先生が全幅の信頼する事は、私は信じられない。
幾らそれが一般論であろうと、芦塚音楽研究所はそういった考え方に、反対して、アンチテーゼとして作られた教室であるはずなのだから。
そこの所を私が厳しく批判すると、「でも音楽に関しては、先生の事を100%信じているから。」などとあわてて、弁解をする。
誰かと何かの話をしていた時に、その人が、「私の音楽大学時代の同級生が「『芦塚は・・、う〜ン、音楽は凄いんだけど、人間はねぇ?!』とか言っていた。」と言う事を言っていたと言う事を聞いた事がある。
しかし、全幅の信頼無しに、人に音楽を指導する事が出来るのであろうか?
その人から音楽を学ぶと言う事は、その人の人間性を学ぶと言う事では無いのだろうか?
そこの所を理解する事が出来なくて、音楽を理解する事は出来ないのでは無いだろうか?
私の人間性を理解する事無しに、芦塚メトードが理解出来るとでも言うのだろうか?
それは、芦塚メトードというものを、単なる技術としてしか捕らえていないと云う事である。
同様に子供と先生の関係も同じである。
子供が伸びるかどうかは、ひとえに親の教室や直接指導してくれる先生に対しての信頼関係にかかっているので、少しでも、父兄に、教室への信頼ではなく、自己中心的な、エゴ(過保護とも言えるのかな?)が混じってきたら、その時点で子供の将来性はなくなってしまう。
と言うわけで、教室の創設当時の父兄には、私に対しての尊敬の念が薄かった分けではない。
逆に教室を作ったばかりの時期には、教室の事をやっかむ人達の間からは、父兄達の私に対しての尊敬の念を、教室がまるで一つの宗教団体のように言われる事もあった。
ちょうどその当時は、オーム教の事件が世間を賑わしていて、私自身が、一般の人間達からあたかも宗教団体のように言われたりする事を極端に嫌って、父兄との距離をある程度おいて接するようにしていたので、それが災いして、父兄達が今日、芦塚メトードの価値観を認めなかったり、先生を軽んじたりする原因にもなっている。
指導者は必ず生徒や父兄に対してカリスマ性を持たなければならない。
生徒にとって憧れの先生でなければならないのだ。
非常に残念な事は、多くの先生達や父兄達が音楽を技術として捉えているという事である。
私から学びたいのは技術のみ・・・という事である。
音楽は心の表現である。表現する心が無しに、技術の習得は有り得ない。
音楽は心の痛みである。心の痛みを理解する事もなく人を感動させる事は有り得ない。
[小手先技の年齢]
子供の話?
いや、30代までの若手の話です。
ショーン・コネリーの映画を見ていて、「満ち足りた人生とは・・」と考えた。
ショーン・コネリーの若い頃の映画、ジェームスボンドシリーズは、軽薄なマッチョマンと言う感じで、私の最も大嫌いな俳優の一人であった。
それが、いつの頃からか、お髭に白いものが混じり始め、頭の毛が薄くなる頃から、なんともその重厚な演技力と滲み出る人間性に、symbthyを感じるようになった。
晩年、(と言っても、まだ現役で活躍しているのだが)ショーン・コネリーの自宅でのくつろいだ生活とインタビューの番組があった。
実際に仕事をやり遂げた人間の満ち足りたゆとりがあった。
ルービンシュタインなども40代ぐらいまでは、技巧的な華やかさばからが目に付く私の嫌いなタイプのピアニストであった。
しかし、私が音楽大学生の時に手に入れた、ルービンシュタインのchopinのマズルカのレコードは、60歳を過ぎて録音したのであるが、そこではルービンシュタインは、既に神様の領域に達していた。ルービンシュタインも若い頃の派手、派手しい演奏と、年をとった時の演奏では全く別人のような演奏をする。
[あなたの10年後は?]
人は今を生きながら、10年後の生活を考えなければなりません。
良く父兄が質問します。
「この教室はあと10年経ったらどうなっているのでしょうかね?」
先生としては誰だって「10年後には、教室がビルになっていて、先生は100人位いて・・・」ぐらいは言いたいですよね。
教室をビルにするためには、たくさんの先生を育てて、教室をいっぱい作って、もっと経営に専念しなければなりませんよね。
ジェラシーで他の同僚や生徒を妬んでいたり、先生を作る事を不精してめんどくさがっていては、何も出来ません。
それこそ、女性特有の**です。
と、思っていたら、jealousyって、男性にもあるんですねぇ〜?! 困ったものです。
当たり前の事ですが、「千里の道も一歩から」という諺通りに最初の一歩を踏み出す事を躊躇していて、そこでなにかが出来るわけはありません。
凡人は今を精一杯生きているだけなのです。
優れた(人の上に立てる)人は、しっかりと未来を見つめて、明日の事の為に仕事をしています。
生徒のお子さんについても同じです。「子供には、ゆくゆくは、名門高校から東大に入って、一流の会社に就職してもらって・・」 親はそう夢見ているのかもしれません。
でもどうしてそうならないのでしょうかね・・。
当たり前でしょう。
皆、考える事が一緒だからですよ。
考えることが一緒だったら、それだけ競争率は高くなりますからね。
例えば、犬の場合にはコーヒーカップの中に入ってしまう犬や、仔牛程もある大きな犬がいます。しかし、人間の場合には、その体型が変わらないように、人間の持つ能力は殆んど大差は無いのです。
人間の能力は先天的なものよりも、むしろ殆んどの場合には後天的な要素で決まるのです。
だから東大に入れるか否かは、むしろ本人の願望によって決まる事が殆んどなのです。
勿論、誰しも、東大には入りたいですよね。
しかし、そこには、願望とそこまでの積み上げがあります。
「そのために一流の塾に入れて、勉強をさせて来たのだ。」
しかし、その一流の塾に通わせたときは、その目的は東大に入学するためだったのですか?それとも、ただ単によい成績を取るためだったのですか?或いは、あわよくば、東大と言う事だったのですか?
そもそも、願望とは何だったのですか?
つまり、東大に入る事が、東大に入るための目的では無いはづです。そこから違っています。
芦塚メトードでは、「具体性のない目標は、目標になり得ない。」という箴言があります。
「東大に入る事」・・・それでは、正しい目標にはなり得ないのですよ。
一流の高校に行くためには一流の塾に行って・・・等々、それで、どうなるのよ?東大を卒業したホームレスだっていっぱいいるんだよ。僕が高校の時だって、高校の下の洗濯屋の親父は東大出だったのだから。
つまり、東大を出たからといって、それで何かが出来るわけではないのね。僕の同級生の大半は皆東大出何だけれどね!次のステップがないと言う事です。
日本人はどうして、新しいものを認められないのか?
日本の音楽界は基本的には家元制度を踏襲している。家元制度の基本は、絶対的な崇拝と服従である。批判することは絶対に許されない。
西洋音楽が「音楽事始」で日本に輸入された時に、その技術不足を補うために文部省が持ち込んだのは、日本音楽の家元制度である。常に教授の言う事は正しいとなるのだが、その拙い技術とアマチュアでも、もう少し音楽の知識はあると思える、教授の知識には悩まされた。
おばあちゃん教授が、音楽大学の1年生の前期の試験の課題曲にカバレフスキーのsonateが出て、私がその曲を練習して教授のlessonに持っていったとき、「私が若い頃には、月光ソナタとあと少しぐらいしか譜面がなかった。こんな現代曲(?!)は分からないわ!」と言われて絶句してしまった。音大の教授が・・・だよ!課題曲ぐらいは、勉強しろよ!
[似て非なるもの]
職人の脳と芸術家の脳
[ヨージーの法則]
金は使わないと入って来ない
[音大生の暴言]
「ショパンが弾けます!」
「ショパンだったら弾いたことがあります。」の間違いじゃないの
[音楽のプロ]
アマチュアっぽい音楽の指導者は、易しい簡単な曲は何も勉強することがないと思っている。
本当のプロは、初歩の教材を一番大切にする。
[それは・・・]
易しい簡単な曲を、「基本を守って弾く事が如何に難しいか」 をプロは知っている。
アマチュアは楽譜上の簡易さ(記譜上の簡明さ)で、使用されている技術の基本も簡単であると錯覚する。そこが、proとamateurの差である。
論文のネタ集
経験によるシステム化
ジェミニアーニやビバルディ、コレルリのラフオリアが、兎に角、長ったらしいかった!
それは、バリエーションをグルーピングしない事によって起こる、演奏上の誤りである。
論文のネタ集
子供の教育
過保護
私が初めて子供を指導した頃には、過保護とかいう言葉はまだなかったけれど
[人のやっていない事は無い]
私が自分の教育論を「まだ誰もやっていない理論」 と説明していた時に、女の先生が、「それはあなたがまだ勉強不足なだけで、人のやっていない事はあるわけはない。」と私に噛み付いてきた。
補足説明:
学校の先生などをやっていると、本等を読んで得たものが知識であると勘違いをする。
そして、自らが何かを自分で発明し発見するという生活をしていないと、与えられた日常の全てが、全てであるような錯覚に捉われるのだ。
歴史は天才が作るもので、歴史上のすべての事は既に天才達がやっていると思い込んでいる人達がいる。
歴史の中で人間がやっていない事は無いと思っている人達が多い。
どんな勉強であったとしても歴史の中で誰もやっていない事を見つける事は容易い。
先人達がやった事を調べて、その先人達のまだ手を付けていない所を、穴埋めすれば、誰もやっていない事をやる事が出来る。
発明は日常の不便な所から、見つける事が出来る。
凡人は、不便な所を不便と感じる事が出来ない。
凡人にとっては、例え不便な所であったとしても、それが日常だからだ。
発明をする人は、日常はただの主婦だったりする。
とてつもない発明や発見が、そこらの主婦の発明だったりするのだ。
しかし、その主婦は日常の不便さを不便と感じ、しかも自ら改良しようとする。
子供達を育成する上でもっとも大切な事は、そういった性格を身に付けさせる事なのである。
人のやっていない事を探し出すのは、いとも簡単な事である。
まずその時代にありえない事は、ありえないのである。
分かりやすいように、音楽の話で説明すると、私達が勉強している西洋の音楽の歴史はたかだか500年ぐらいに過ぎない。その中でも、私達がよく知っている調性音楽の歴史は400年ぐらいなのだ。しかも、Pianoの歴史はわづか200年程度である。その間の技術の発達を調べる事はたやすい。
そういう風に問題を絞り込んでいけば、勉強する事は限定されてくるのだ。
人生では思いも拠らぬ事が分かっていない場合が往々にしてある。何で、こんな事も分かっていないの??
人間の歴史なんてそんなものなのだよ。
「人間が全てを知っている。」 ・・・何て事を言う事こそ、傲慢なのだよ!
[子供達が学ぶべき日常の単語で]
音楽は全く同じものが繰り返される時に、実に細かな所が変えられる事が往々にしてある。
全く同じものを繰り返すのに、ほんのちょっとした変化を付ける。
それをGenzmer先生はkleinigkeit(クライネニヒカイト)と呼んだ。
直訳すると「些細な事」「取るに足らない事」となる。
ヘンデルの装飾的バリエーションやビバルディの拡大縮小、挿入句等による変化その他展開による変化がある。
しかし、kleinigkeitではなんとも子供には分かりにくい。分かり易い訳語を考えなければならない。
「プチ変化」はどう?
なんのこっちゃ?
ますます分からん?
[卵が先かニワトリが先か]
ジレンマdi lemma(八方塞がり)
新しく教室を作ろうとする時には、そこに生徒がいないと先生は雇えないし、先生がいないと生徒は増やせない、と言う堂々巡りが起きる。
これは新しい事を始めようとする時に、必ず起こる問題である。
嫌なことは、頭に残っている間に済ませる事!
論文のネタ集
これだけ実績を上げていても、俺の言うことは認めようとはしない
論文のネタ集
人間年を取ると、過去を自分の都合の良いように、作り替える
この話は、日本人の女性の話に当て嵌めると分かり易い。
日本人の女性は、どんなに愛していて、長年連れ添ってきた恋人であろうと、一旦、新しい恋人が出来ると、前の恋人を中傷誹謗し、果てはその彼氏からレイプされたとすら言い始める。
それが今の恋人に対して、誠実である証しである、とでも言うのであろうか??
ヨーロッパの女性は新しい恋人が出来ても、前の恋人の事を悪くいう女性はいない。昔の恋人であろうと、その愛を自慢する。
「だって、私が愛した人だもん!素敵な人に決まっているでしょう?!」
う〜ん!可愛いね・・・!
それに比べて、日本女性の軽薄で陰険な事!
論文のネタ集
(テレビからの書き取り)
一生懸命頑張ってそこでもうちょっと最後に頑張ることを努力という!
子供たちの柔道教室:古賀塾
暗譜
先生が暗譜で指導しない限り、生徒が暗譜をする事はない。
普段のレッスンから、暗譜でレッスンすること!
生徒への、暗譜の癖をつける事
論文のネタ集
「I dentity」と言う横文字を日本語に置き換えると、「生きがい」と言う言葉に当てはめることが出来る!
返: ご無沙汰しています。
年をとると、メインの心臓や肥満、血圧などではなく、無数にそれ以外の体の不調がどんどん出てまいります。ちょうど私のポンコツカーのように、修理しても、修理しても、どんどんどこか悪いところが見つかって、そろそろ買い直す時期かなーと考えたりします。
しかし自分の体は、残念ながら買い直すことが出来ませんので、なんとか修理しないと仕方ありませんものね。そのためには、感心して相談の出来る病院、或いは医者が身近にいるとよいのですが、今日は逆に医者の質が落ちているというのは私も実感しています。今週の日曜日は千葉教室の発表会で土曜日から千葉に泊まり込みになります。
子いじりで子供が親の言う事をきかなくなっても、親はそれを子供が成長した結果だと思いこんでその重大性に気付かない。
子供は小学生ぐらいまでは、一流の大家のようにPianoやviolinを演奏する!
それが中高生になると信じられないぐらいに下手になる。
何故?
それは、子供は単に物真似で演奏しているに過ぎないからである。
それが日本の音楽教育の弊害だよ。
本当は音楽教育・・・ではなく、日本の子供を取り巻く学校教育や塾教育の弊害なのだけどね。
塾でも、問題は解けたとしても、意味が分かって解いているわけではない。ロボットのように、動物のように、言われた通りにしているに過ぎないからである。
(詳しくはホームページ参照)
教室の音楽馬鹿は、**の法科や、**大学ぐらいには進学している!
音楽以外の事に全く興味を示さないので、音楽馬鹿なので、成績が悪いのだが、本人がそのつもりになれば、一年以内で、その程度の大学には進学出来る潜在能力を持つ!
当たり前の事なのだけどね!
アンサンブル教育の価値観
駄目先生や父兄は、生徒(子供)が本番さえちゃんと弾ければそれでいいと思っている。
私達としても、(教室としても) 、勿論、それが生徒本人のsolo(一人で)の演奏なら、それでも良い。
本人がSoloを演奏する場合には、その演奏で恥をかくのは担当の先生と演奏する本人だけだからである。
しかし、アンサンブルでは、その考え方は成り立たない。
私達の教室のアンサンブルの考え方は、生徒達が皆で音楽を作りあげると言う考え方である。
皆が一生懸命練習しても、たった一人の生徒が怠けて練習して来ないと、アンサンブルでは、全員が恥をかくことになる。それ以外の生徒が幾ら練習したとしても、である。
たった一人の練習をしないヘタッピ〜の生徒の伴奏を、先生達全員でしたとしても、その曲の出来はやはり、ヘタッピ〜の音楽にしかならないのだよ。これは不思議な事であるが。
また、生徒が自分が練習してこなくても、お兄さんお姉さん達が一緒に演奏してくれれば、何とか格好がついて、上手くいくとか、もっと酷くなると、教室が提唱している「思いやり教育」を、練習して来ない生徒をお姉さん達がカバーすると言う風に勘違いして、最初から練習して来ない生徒もいる。
反対の立場から言えば、「お兄さんお姉さんが練習をしてこない生徒のカバーをする」という事には、教育上のメリットは全くない。練習してこないのは本人の我儘であるからである。
教室がお兄さんお姉さんに、小さな生徒の面倒を見させるのは、あくまで、小さな生徒が一生懸命努力をしたにもかかわらず、後一歩がたどり着けなかった場合、のみである。その場合には思い遣りは成り立つのだが、本人の我儘で間に合わなかった場合は、本当の思い遣りは、寧ろ舞台で失敗する事である。それで音楽を嫌いになったとしても、教室をやめたとしても、そちらの方が子供にとっては勉強であり、それを体験させることが本当の意味での思い遣りである。
練習をしない、約束の日までに、課題の所まで練習して来ない、・・そういった生徒には、教室の方針として、アンサンブルの申し込みはお断りしている。 勿論、練習はしたのだが、出来なかった・・というのは、構わない。出来る必要はない。その努力が大切である。
アンサンブルでは「本番さえ良ければ・・・」という考え方は、教育ではない!・・と信じているからである。
競争教育から来る、そういった勘違いの別versionである。
生徒がいくらちゃんと努力して勉強して来ても、初心者は、本番でミスをする事がある。
そういった時に、ぱっと手助けをするのが思いやりである。・・と言う事よりも、練習のpointを説明してあげたり、一緒に練習をしてあげたり、と言う事が、お姉さん達の思いやりであって、最初から練習して来ようとしない生徒を助けるのは「思いやり」とは呼ばない。
大人はついつい年下の子供に対してだけ、目が行くものであるが、教育はその年下の生徒に対して、だけではなく、手助けをする(思いやりを与える側の)お姉さん達も(思いやり教育の)指導の対象になっているのだ。
「自分だけ良ければいい。」「本番だけちゃんと出来ればよい。」 という一般社会の考え方は、アンサンブル教育には、最初からそぐわないからである。
オーケストラや室内楽で「2nd ヴァイオリンやヴィオラに回された。」 と言って、怒って来る生徒や父兄がいる。 それは基本的に「室内楽やオケをの事を知らない。」と言う事である。
また、アンサンブルの教育を穿き違えている。
「皆で、一つの音楽を作り上げる」という教室の教育理念が、理解出来ていない。
また、教育上は、本番の出来は、基本的にどうでもよい。
練習の過程で、毎日、毎日、どれだけ一生懸命になれたのか?
それが教育の基本だからである。
注.)勿論、この教育理論は教室独自の考え方である。
音楽大学では、「ヴァイオリンで合格できない生徒をヴィオラで受験させる。
Pianoの独奏では無理だから、伴奏者になる。」と言う考え方が、一般的である。
ヨーロッパのように、「ヴィオラの音が好きだからviola奏者になった。」とかいう話は殆ど聞かない。
だから、日本人のヴィオラ奏者は、安っぽいviolinのような音でしか演奏しない・・・、いや、演奏出来ない。
ヴィオラがヴィオラの音をしていないのだ。
勿論、ヴィオラに対してのプライドというものも持っていない。
所詮は、アメリカや日本のクラシック音楽は、所詮は表面の華やかさだけを追求した付け焼刃のエンターテーメントに過ぎず、哲学や宗教ではないのだよ。
歌舞伎を勉強するのにヨーロッパに留学するの?
そんな事ありえないじゃない?!
じゃあ、なんでクラッシックのヨーロッパ音楽を勉強するのに、アメリカに留学するの?
ストレスを体の中に溜めて置くのは、よくないとは、よく一般に言われる事だが、確かにその通りである。ストレスを解消するには、体をよく動かして、軽く汗をかく事や、よく睡眠をとる事、に加えて、軽い楽しい精神的なストレスをかけてやれば良いのです。自分のやりたい事でストレスが掛かる事は、良いストレスになるのです。私達がよく言うスポットライト症候群のように!(音楽家がしばらく演奏活動をしていないと、舞台のスポットライトを浴びたくって仕方がないようになってきます。それを我々はスポットライト症候群と(冗談で)言っています。)
子供達が必ず間違える所を、
当然のように「間違えたから」といって
見逃すのは許せない!
(Burgmullerなどの初歩の教材に関して)
補足説明
ある先生が子供のlessonをしている所を聴講させてもらった。
その先生は子供は間違えるのが当然だと思っているのかもしれない。
間違いには、不注意(ケアレスミス)による間違いと、理由のある間違いに分かれる。
ケアレスミスによる間違いは、集中力の欠如によって起こる。生徒がちゃんと集中して演奏すれば、間違えずに演奏できる場合には、そこを追求する必要はない。しかし、同じ箇所を何度も間違う場合にはその小節には必ず明確な原因があり、その問題を解決しない限り、生徒は無駄に間違いを繰り返す。正しい指導者はそこの指導を誤る事はない。
ブラウンのひげ剃りドイツの心
私達がまだ幼い頃には、ボテフリのおじいさん達が鍋釜の修理に各家庭を回っていた。
まだ、昭和30年代には、包丁研ぎのおじさん達を路地のあちこちで見かける事があった。
まだ昭和30年代頃までは、日本人の「物を大切にする」という心が残っていた。
所謂、「もったいない」という、心である。
それが、いつの間にか、消費する事が美徳のように変わってきて、捨てる事が当たり前になってきてしまった。
もう一度真の意味のエコロジーを見つめなおすべきでは?
ブラウンのひげ剃り―ドイツの心
私の子供時代には、田舎の家にも穴のあいたお鍋や釜を修理する人が行商に来ていた。
鋳掛け屋さんと言うらしい。
包丁研ぎのおじいさん達もよく回ってきていた。
もう4、50年も前の事になるだろうか?
昔々の思い出である。
日本では商品の保障期間はその商品が製造中しになってから7年なのだそうな。
だから例え自分に大切なものであったとしても、7年以上経つと、もう修理する事もおぼつかない。しかし、私がドイツで使っていた黒檀の古いブラウンの髭剃りはもう既に30年以上使用しているのにもかかわらず、いまだに替え刃がちゃんと売っているのだ。
よくよく考えてみると、もう40以上年は経っている。それでも、千葉の教室に置いてあって、レッスン前に剃ったりしている。つまり、現役なのだよ。
下の黒いケースも40年前のそのままのケースである。さすがは独逸製の髭剃りだよね。
私が留学生であった時代、ドイツの若者の車は等しくフォルクスワーゲンであったが、戦前に作られたフォルクスワーゲンが中古で安く買えたので、貧乏学生の車だったのである。
その当時でも、もう既に30年以上前の車であったろうに。
日本では30年前の車に乗る事は、よほどのマニアでよほどのお金持ちでなければその車を維持管理する事は出来ない。
そこいらに、日本とドイツの物に対する考え方の違いがある。
しかし、物を大切にしない現代の日本社会の考え方は、物量の消費が経済を支えると言うアメリカの考え方であり、本来の日本はドイツと同じ様に、物を大切にする国であった。所謂、「もったいない」という言葉であるよ。
戦前の日本の魂でもあった本当に物を大切にする真の意味のエコロジーがそこにあった。
それが失われていく事は、大量生産、と大量消費する事が国力の増強であると言う、アメリカナイズ化された、戦後の日本社会の考え方であり、それが大量消費文明を作り、学校や塾などによる子供達のロボット化(競争教育)で企業に都合の良い人間を育て、世の中の価値が全てお金であるような社会を作り上げた。
お金を使うためだけの商品に何の意味があるのだろう。
ほれ、ほれ、ブランドなどはその典型であるよ。勿体無くって、使わなくって、押入れに仕舞っておくだけのバッグに何の意味があるのだろうか?
(テレビからの書き取り)
本当に独創的な事は、社会には認められない。だから独創性と言う。
俺が言った言葉じゃないよ!
爆笑問題と京大の先生達の討論会の時に京大の先生が言った言葉
自由と放縦は違う
競争教育と思いやり教育
塾の成績だけで自分の子供を評価する親
バーチャルなパソコンの世界で、生や死を見て、現実の血を流すことのない、痛さを体験した事がない子供達、
心が傷ついても、何も感じないのに、ちょっとした怪我でも大騒ぎする親達
子供のステータスであった、肥後の守が禁止されて、鉛筆すら削れない子供達
生徒がコメントをしゃべる事を嫌がった事に対して
プロは、自分が弾く曲の解説は全部出来る。
生徒に曲目解説をさせるのは、演奏家が自ら曲の解説をしてお客さんの気持ちをつかむということをしなければいけないので、その練習のための場所を提供しているわけなので、それを「はずかしいから」とか、「弾くのはいいけどしゃべるのはいやだ」とか言ってやろうとしないのは、けしからん!
文化と知恵
経験もないのに、知識や理論だけが全てのような頭でっかちの観念論、何も考えようとしないで周りがそうするからと社会に合わせるだけの感情論、「自分がそうしてきたから」と自分の体験だけが全てのように押し付ける、年に物を言わせるだけの経験論者、
本当は何が正しいのか、という事を知ることは難しい。
まだ実体験を経験した事のない若者や、経験をする事すら許されない戦争犯罪の誤り等を、過去の歴史を学ぶ事で、知る事が出来る。
人類の文化は人々の英知の積み重ねである。
過去の偉大な人達が何をなしたのか、と言う事、その偉人が達成した事自体は、さほど勉強にはならないかもしれない。何故なら、その人達が果たしてきた事は、今の時代では、もう、既に、当たり前のことになってしまっているからなのだ。しかし、彼らが生きた時代には、それは非常識であり、エキセントリックな事であったのだ。時代に先行した彼らが、当時の時代の社会の無理解と戦って、如何に自分の主張を、理論を、社会に認めさせてきたか、と言う事は、今日の時代に先駆ける人々にとっても、先人達から学ぶ事は多い。
先達の人生を学ぶという事は、偉大な人々の生き様を学ぶということだからである。
〔結果を求める若者達〕
音楽を勉強する多くの若者の間違いは、音楽で結果を求めようと考えている。
つまり、音楽の社会で、「ソリストになりたい。」とか、「演奏家になりたい。」とかいう願望である。
しかし、音楽を勉強する人達にとっては、その音楽の勉強を続ける事で、ソリストになれるか、演奏けとして社会的に自立出来るか否かは、偶然の結果論に過ぎない。
しかも、一般の人達が抱く、ソリストとか演奏家というimageは、大きなコンサートホールでsoloの演奏会をするとか、テレビや舞台で活躍するとかの、そういった見た目の要素を求めているに過ぎない。
やっと音楽大学を卒業したばかりのペーペーが「ここまで努力をしてきたけれど、・・・」 とサっさか、婚活に励むのを見ると、それなら、最初から「料理、洗濯、縫い物を勉強すればよいのに!?」、と思ってしまう。
私はよく料理教室の料理の話をする。人気の料理教室では、とても高価な食材がふんだんに使用されるが、家庭で料理をするには、その日にスーパーで何が安売りをしているかで決まる。
毎日、冷蔵庫に何が入っているか、でその日の献立が決まる。
そんな料理教室でやっているような、高価な食材をふんだんに買うことなんか、子育てしながら出来るわけではないのだよ。しかし、現実を見つめて、現実的な料理を学ぼうか?と思うと、そんじょそこいらの料理教室では学べる事はない。
だって、「冷蔵庫を開けて、何が作れるか・・・?」では、料理教室には生徒が集まらないからである。
つまり、エンターテ−メント性がないから、集客力がなくなってしまうのだよ。
もっと、日常的な生活の一環として、洗濯教室なんてものはあるのかな?
勿論、プロを養成するための洗濯教室はあるかもしれないが、一般の主婦を対象にしたものは聞いたことがない。
縫い物も同様である。
日常生活で必要なものは、ちょっとしたほころびを縫ったりで、本当のリフォームならプロに頼むのではないだろうか?
いや、それはないな〜ぁ!
今の日本人は、リフォームをするぐらいなら、新しい服を買うか・・・!??
本題に戻って、音楽を勉強する事がその人にとって価値があるのは、音楽がその人をスターにしてくれるからではない。
そういったエンターテ−メント性ではない。
音楽がその人にとって、人生の指針であり、宗教であり、自分の心の支えであり続けるからなのです。
そういった音楽の持つ素晴らしさを人に伝える事が出来るか?
それが音楽教育の本来の姿なのだ。
音楽を生徒達に指導しながら、「どうしたら、エンターテ−メント性ではなく、本当の音楽の素晴らしさを伝える事が出来るのだろうか?」と、この数十年も悩んできた。
私が指導してきた巷の生徒、所謂、近所の子供達の大半、80%以上の生徒達が音楽大学に進学したり、教室から直接留学したりして、今現在も音楽の世界に生きている。
しかし、その生活は、私が意図してきた音楽の使徒としての生活ではない。
音楽を指導する指導者達や、音楽を学ぶ人達、それを支える父兄達の目標は、音楽技術の習得に過ぎない。音楽を勉強している人達が追求しているのは、「その音楽が何を伝えようとするのか?」 ではなく、「私はこれだけの技術を持っているのよ!」という自己満足と自惚れである。
魂のない音楽を求める人々に接する度に、「私が選んだ音楽教育と言う人生が、誤りであったのではないか?」「自分は間違えた人生を選択したのではないか?」 と、常に悩み続けてしまう。
生まれてすぐに、早期教育で音楽に接しながら、技術を習得する事のみに始終し、音楽の魂を知る事もない。
技術のみの音楽がその人にとってライフワークと成りえるのか、それともただの趣味かとして接しているのか本人自身にも分からない。
それでは、何十年音楽に接して行こうと無駄である。
今の若者達はこれからやろうとすることの結果を常に求める。
音楽や勉強は結果ではなく、過程である。
死の直前にそれが結局失敗であったとしても、それで人生が楽しめたのなら、充分に成功した人生であると言える。
逆の言い方をすれば、人生の最後の瞬間にどのような栄光が訪れようと、それまでの人生が辛く苦しいものの積み重ねであったとすれば、その人生はたいしたものではない。
徹子の部屋で、「あなたはお子様にヴァイオリンを勉強させたいですか?」と徹子さんが質問したら、「子供にはそんな辛い思いをさせたくはありません。」と答えた日本人のヴァイオリニストがいた。
私は自分の生徒や子供にはそんな思いはさせない。
これは「一芸を極める」という目標を、見誤った例にしか過ぎないし、そんな辛い音楽芸術ならば、私はお金を払ってまで聞きたくはない。
子供達にいつも言っている事は、「音楽の楽しさ、美しさ、素晴らしさ、つまり音楽を通じて、人生の感動を伝える事が、音楽を学ぶ意味である。」ということである。
少なくとも私の生徒達には・・・、或いは、私の元で音楽を学んで、音楽の世界で活躍している弟子達には、「そんな辛い思いは・・」という言い方をする弟子達はいない。
好きで好きでたまらないから、一途に音楽の道を歩いたのだから・・・である。
その基本を間違えてしまっては、人生で得れるものは何もない。
そこで、ほんの少し、名前が売れたとしても、それは「儚き人生」にしか過ぎない。
もう一つの若者の弁解は「自信がない。」ということである。
自信がないということは、人にアピールしようという内容が人が求めるものと食い違っているからである。
「私は上手いんだから、私を認めてよ!」「私は・・・、私は・・・」
「私」 から離れる事が出来ない。
私達が演奏会に行くのは、あなたが上手いという事を認めるためではない。
上手い演奏家ならば、世界中にいくらでもいるからである。
私がいつも言っている、「塾に行って幾ら成績を上げたとしても、もっと成績の上の人は幾らでもいる」と言う事と同じ話である。
勉強をするのならば、人と成績で争う事ではなく、勉強が好きになるような勉強をすればよいのだ。
音楽も同じである。音楽が好きで、音楽の素晴らしさ、音楽の感動を表現しようとするのなら、人は喜んであなたの演奏を聞きに来てくれるであろう。
それがリピーターを作る演奏である。
それが出来るようになれば、自分に対する自信は自然に生まれる。
「そんな難しい事は・・・」
「ちょっと!ちょっと! 教室では、5歳の子供でも、小学生でもそんな演奏をするのだよ!」
「音楽の感動を教える演奏とは、技術ではなく、その人が音楽に立ち向かう、姿勢であり、拠所とする心なのだよ!」
「年齢でも経験でもないのだよ。考え方なのだよ!」
職業意識の欠乏
人が何を求めているかではなくって、自分が人に認められること、を常に求める!
自分がそれをやるか否か、或いは、人にその人達が納得出来る水準の物を提供するという事ではなくって、自分に対しての「ギャランティー」を求めて、そのギャランティがないと、やろうとしない。
自分自身で決断が出来ない⇒決断をしても、一番、今が楽な事を選んでしまい、後で周りの人を羨む。
全てを人のせいにして、自分を正当化する
出来た事は自分の力であり、出来なかった事は他人の性である。
「なにもしないこと」
自分以外の人が、「出来る」という事は、「この人だから出来る」としか思わない。それはその人が努力を積み上げて、その結果、身に付いた成果である、という事を、どんなに言ってもわからない。
一旦、「分かる」といってしまうと、その人と同じ努力をしなければならなくなるからである。
「やる気が出なくて、出来ませんでした。」ということは、自分のせいではないと思っている。
なにも努力をしないうちに「自分に向いてない」と思いこむ。
(向いてないかどうか分かるところまでも努力していないにも関わらず)
責任を持つことを極端に嫌う。そのため自分で決断ができない。
「自分が出来ること」 だけしか仕事をしようと思わない。
「出来ない」ことを勉強して、「出来る」ようにして、「一つでも多くの仕事を得よう。」という発想は最初からない。
仕事とは、「人の役に立つことをした分だけ報酬がもらえる。」ということだ、ということが全く理解できない。
平社員志望なら大学に行って学歴をとれ!
「プロになる。」、「人を雇う。」という立場になりたければ、大学なんて行っている暇はない。
生徒の両親が若かった頃[1]から、芦塚先生は、言い続けている。
一体何人の人が芸大に行って何人の人が留学しているのか!
しかも、その人達の何人が、プロになったのか。
プロになる人はプロになるための勉強をした人だけである。
どうして、こんな簡単な事が、人は分からないのだろうか??
大人は許せないものが許せるようになる。
大地に石がある。
しかし石は周りに同じような石があることを知らない。
絶対孤独と言う!
絶対孤独
宇宙空間に突然彼は生まれた。
完全に自己を認識出来ている彼である。
しかし、彼が存在していることを誰も知らない。
「いそしむ」と言う言葉には、「心を込めてはげむ」とか、「勤勉に繰り返してやる」とか言う意味が含まれる。
だから「ピアノの練習にいそしむ」とは言うが、「子供が鬼ごっこをいそしむ」とは言わない!
決まった事(pattern)をコツコツとやる事は出来ても、決まってない事をコツコツとやる事は難しい。
論文のネタ集
よく親が勘違いしている言葉がある。
「挫折に強い人間になって欲しい。」と言う親がいたが、それは大変な間違いだ。
死ぬ事に強い人間がいるわけはない。
死は一回こっきりだからだ。
挫折も、負の遺産を生み出す事はあっても、そこから何か建設的な事を得る事はない。
日本の古い諺に「七転び八起き」という諺がある。
「逆境に強い」「打たれ強い」と言う意味である。
それは「決してあきらめない」という所から出ている。
挫折とはその事柄をあきらめることである。
「あきらめ」から得られるものはないし、「あきらめ」から責任のある人間が育つ事はない。
論文のネタ集
積み上げが出来ないのは、ここまではこうしたいという目標がないからだ!大目標に至る為の中目標から更にショートな小目標(一週間ぐらいのみじかな)
良い事は自分がやった事で、悪い事は人のせいにする
[一発勝負]
曲を弾く時に、3回か4回弾きなおして、「やっと調子が出てきた。」と平気で言う生徒が結構いた。しかし、舞台芸術はすべて、一発勝負である。
最初に出した音が悪ければ、弾きなおしてよい音が出たとしても、それは何の意味もないのだ。
しかも、そういった事は音楽や舞台芸術に限ったことではない。
普段の、普通の事にもたくさんあるのだよ。
世の中にはそういったものは無数にある。
医者の手術だって、失敗して殺してしまえばそれまでよ。
「2,3人殺さないと一人前にはなれない。」と医者である私の友人は言っていたけれど、殺される方には2度目はない、・・って事よ!
医者という職業は、特別に責任が重くって・・だって??
じゃぁ、車の運転は?
事故って、人を殺す事だってあるだろう。
「殺すために、酒を飲んだんじゃない!」って、弁解しても、そりゃ、通じないだろうわさ!
〔地位〕
人は地位でその人の価値を判断する
毎日のように付け届けが届き、電話や名刺が届く「自分は偉いのだ。」と思い込んでいた人が、その地位を退官した次の日からは、全く誰も訪れて来なくなって、呆けてしまう。
ヨージーの法則〔プロへの思い込み〕
自分がプロだと思い込んでいる人に、「そんな演奏ではとてもプロにはなれませんよ」とアドバイスするほど無駄な事は無い。