06年8月18日0:47分ジーグが死にました。
それは、ちょうど私が大和成和病院で心臓のバイパス手術を受けて1年目の事です。
私の病気を引き継ぐように、心筋梗塞の症状で、ジーグは死んで逝きました。

私は自宅で仕事をしていたので、ジーグの息を引き取る最後の瞬間を看取る事はできませんでしたが、由起子や桃ちゃんにしっかりと見守られて、旅立っていきました。
明日の朝10時頃に江古田のジーグのお部屋に火葬車がお迎えに来ます。

 

私が病院を退院して、私の動けなくなってしまった体力に合わせて、リハビリを兼ねた散歩に喜んで、付き合ってくれました。それが1年ほど続いて、8月の最初の頃はまだ元気で大好きな散歩も喜んで自分からいつも通りに行っていたのですが、しかし、「あれよあれよ。」いう間にだんだん具合が悪くなって息も出来ないぐらいに、苦しがって、やがて腰が立たなくなって、大好きな散歩さえ足を上げておしっこをすることすら出来なくなってきました。
それでも、息を引き取る10日位前までは抱きかかえられて、外に出てもおしっこだけは自分の足で立ってしっかりしていたのですが、最後の3日ぐらいは起き上がる事も出来なくなってしまいゲージの中のおしっこシートにお漏らしをするようになってしまいました。
その時の、ジーグのブライドを傷つけられたような表情は可哀想で目に焼きついています。

 

ジーグの病気の原因は心臓の弁の不良で、体に送られなければならない血液が心臓の逆流してしまい、そのために半分の量の血液すら送れなくなって心臓が大量に血液を送り出そうと、どんどん肥大化してしまい、その結果肺を圧迫して、肺に水がたまって呼吸が出来なくなると言う、所謂肺水腫を併発しました。しかし、その後肺水腫の治療で肺の水を抜くために利尿剤を投与した所、こんどは腎臓に負担がかかってしまって、腎不全の症状が出てしまい、利尿剤と腎臓の薬の正反対(腎臓の薬を投与すると肺水腫が悪化し息が苦しくなるし、利尿剤を投与すると息は楽になるのだが、胃液を吐いてしまう。その薬のバランスを取る事でジーグにとって一番楽な状態を模索しながらの毎日でありました。)

病院としては酸素部屋で酸素を大量に吸わせることで、心臓が活性化して少ない肺でも呼吸が出来て、息使いも随分楽になって、安らいで休むことが出来るようになりました。

 

しかし、病院の開業時間は朝の9時から夕方の7時までで、その後は誰もいなくなるので、出来れば家につれて帰って見守ってあげたいと言う事で、最初は人間用の酸素を探しました。
ジーグ用のゲージを薄いビニールで包んで、酸素の管を中に入れれば酸素室が出来ます。
ところが酸素を作る器械が全て注文販売で店に置いてある所が無かったのです。

これは困ったと思っていた所、ネットで小型犬用の酸素室のレンタルがあるのを見つけました。

急遽、電話をして次の日の朝一番には借り受ける事が出来て、江古田のジーグの部屋である3号室にレンタルの酸素部屋を置いて、自分の住み慣れた部屋で飼い主の由起子や桃ちゃんに看取られながら、安らかな最後を迎えることが出来ました。

 

その最後の一瞬までは、病院と家の酸素部屋を往復する毎日でしたが、一つの問題はジーグにとって、送り迎えは結構体力を使うのではないかと言う事でした。
それだけではなく17日の夜は、明日の18日からは教室が普通に仕事が始まるので、「ジーグの面倒を見るローテーションをどうしようかな。」と考えていたら、まるで私達に、ちゃんと迷惑をかけないようにするように、18日を迎えた瞬間、3,4回小さな声を出したかと思うと、あっという間に苦しまないで眠るように死んでしまいました。

そういえば、具合が悪くなって動けなくなったのも、教室の先生方が夏休みに入ったのを、見計らってのように、だったしね。

ジーグが死んだその時には、私はハイツで仕事をしていましたが、由起子が抱きかかえながら「ジーグが死にました。」とつれてきました。まだ温かいジーグを抱いてしばらくしていると、いつの間にか抱いている手が真っ黒なウンチまみれになりました。
人間では葬儀社の人が人の穴と言う穴を綿で詰めて体液が出ないようにします。

私達ではそういったことは出来ないので、温かいシャワーで綺麗にシャンプーをしてあげることが精一杯でした。
「ゲボまみれになったり、ウンチまみれになったりで、嫌な臭いがするよね。今、いい匂いがするようにしてあげるからね。」
桃ちゃんと由起子がハイツの温かいシャワーで泣きながら体を洗っていました。

由起子と桃ちゃんがジーグのシャンプーをしている間に、私は長崎の母に電話をしました。

次の対応を聞くためです。母達はコンクール犬を何頭も育てて、病気や生き死の扱いの経験も豊富だからです。
長崎の母から、火葬の車がある事を教えて貰いました。

(ジーグとぬいぐるみin千葉の花園教室にて )

明日の朝10時頃に江古田の教室にジーグの火葬車が来ます。そしてジーグは骨になります。
私達に沢山の愛と思い出を残して・・・。

享年は8歳でした。
犬としては短命なような気がするのですが、小型犬であるシーズーは元来短命で長く生きて10年〜12年位なのでちょっと早いかなという感じですが、寿命の範囲ではあるのだそうです。
その時に聞いた話なのですが、犬の心臓弁膜症は結構多いそうです。

延命についての考え方

私自身は、幼少の時代から、犬や猫と一緒にすごす機会は結構、多かったのですが、不思議なことに手元で死なせたのは今回が初めてでした。

一番多く動物を飼っていた小学生の頃は田舎の広い土地に放し飼いでしたし、動物好きの兄弟や従兄弟達が犬猫を拾ってきては、面倒をそのまま見ていたわけで、一番末の私が動物を拾ってきて飼うと言う事は年功序列的に有り得無かったのです。

又、私は祖母の住む田舎の諫早と母親が働いている長崎の町を代る代るに転々と引越ししていたし、長崎では自宅ではなくアパート住まいで動物を買うことは許されなかったし、その後は東京のアパート住まいやドイツの生活で、本当に動物を飼うことが出来たのは30歳も後半になってからです。

勿論、齢(よわい)60年を過ぎると人間の死にしても動物の死にしても、いろいろな死に向かい合う事が数多くあります。

まだ千葉の朝日が丘にも、教室があった頃のお話ですが、その教室に迷い込んできた若い(幼い)猫が6匹の子供を産んだのに、どうして良いのか(どう育ててよいのか)分からず、結局自分で食い殺してしまった(愛撫をしているつもりが食い殺してしまったのです。)のは、近頃の若い女の子達を見るようで、なんとも痛ましい限りでした。
朝日が丘教室の庭に小さなお墓を作ってあげました。

しかし、その後その若いメス猫も車に轢かれたかで、溝の中に落ちて死んでいました。
勿論、子猫達と同じ所に埋めてあげました。

 

動物の死も、人間の老人医療の問題も、考えさせられることが数多く見受けられます。

 

教室としての「動物に対してのポリシー」

都会の生活は何かと動物にとっては住みやすい環境とはいえません。

動物との共存を許さない都会での生活

散歩していても「此処ではおしっこさせないで!」とか、何かとうるさいし、又、ペット禁止のマンションの方が殆どです。
(・・でも赤ちゃんも禁止だから、やむをえないかな?)

僕がヨーロッパに留学している時も、外国人禁止で、しかも音楽家なので家を借りるのは困難を極めました。

本当にごく僅かのことですが、今、都会のマンションでも動物と一緒に住めるマンションが少しずつ増えてきている事は、ある意味では喜ばしいことではあります。

「ある意味では・・・」と言ったのは、人間にとってはペットと一緒に暮らす事は、本当に心の支えになってよい事なのですが、動物にとっては、都会のマンションで暮らすことは決して恵まれた環境であるとはいえないからであります。

中型犬や大型犬はそれなりの広い自然の環境が必要です。
都会の狭い部屋に閉じ込められていることは、ある意味では現代の子供達のように、生まれてきたときから牢獄に閉じ込められた人間と同じなのかもしれません。

私は、高所恐怖症で、ビルの10階ぐらいになると、恐怖を感じます。
しかし、今は高所平気症という名前があるそうで、教室の生徒にも、事務所の土を見ると、「土が、怖い!」という生徒がいます。
聞いて見ると、産まれてから、10階以上のビルで育って来て、一度も平地で育った事がない、つまり、学校で山林の合宿以外では、土の上で生活をした事がないのだそうです。
そんな人間が、こんなに身近に居るんだ!!と驚いてしまいました。


又、飼い手側ではなく、近所の人達にとっては、動物の吠え声や臭いのように飼い主にとっては然程の事ではない事でも、周りのひとにとっては(犬好きでない人に限らず、タバコのきらいな人と同じように、)非常に迷惑至極であることが多いのです。
でも、これは、動物のお話として話ていますが、それは子供や赤ちゃんについても、全く同じなのです。

又,困ったことに、親や子供が非常に動物好きであったとしても、その子供自身の動物アレルギーなどによって、動物が飼えない(動物と一緒に生活が出来ない)子供が増えているという現状を考えなければなりません。

しかし、動物は子供達に素晴らしい贈り物を沢山してくれます。

現代社会は、核家族でおじいさんやおばあさんもいないし、兄弟すら沢山いる家庭も少なく、一人っ子問題などと言葉すらあります。

子供を取り巻く環境である、塾の友達もある意味では競争相手に過ぎず、真の意味での友達とは呼びがたいものがあります。言い換えると現代の子供達は他人を競争相手としてしか見なくなってしまっているのです。

そういった意味合いからも、現代の子供達は、他人のことを思いやり、愛して保護すると言う事を学ぶことがなくなってしまっています。

私達は音楽教室という商売柄、年頃の女の子達と接する機会が他の人達より多いのですが、今の若い女の子達にとって、人を好きになると言う事は、お互いを認め、尊敬しあうと言った風な大人の人間としての男女の交際ではなく、「今が楽しいから。」といった風な短絡的、本能的で衝動的です。

そういった意味では一年中繁殖している若い女の子達のほうが、よっぽど動物的であるといわざるを得ません。
ワンちゃんは年に二回しか繁殖しないんだよ!
それも結構相手を選ぶしね!

はみ出して、不平不満や愚痴ばっかり言っている老人にならないように、お話を急いで元に戻すと、概して、人間の生き死を経験した事の無いままに育った若者は、年を取った人をいたわったり、大切にしたりはしません。

「遺産が欲しいけど面倒を見るのは嫌だから、元気なうちにさっさと養老院に入れてしまえ!」とかね!父親がさっさと娘を結婚させたいのと同じ理由かな?

今年の冬(正月休みの時)の事でした。 
雪混じりの霧雨が降って、しばれるような天気ではあったのですが、ちょっと小腹が空いて、寒さと空腹のバランスが崩れてしまったので、(ハッキリと腹が減ったといえばよいのにね?)もう深夜の2時ごろではあったのですが、近所の100円ショップに買い物に出かけました。
100ショップはちょうど神社の前にあります。



幾ら江古田駅の前とは言っても正月の事で、流石に周りは街頭の明かりも少し暗めで、100ショップの前だけが昼間のようにこうこうと明かりがついていました。
買い物を済ませて、店をでとふと前を見ると、神社の柵の石垣に目一杯に古着を着込んだ老婆が座っていました。
「え〜!凍死するんじゃないの?」「それとも・・・?ちょっと休んでいるだけなのかなぁ?」
しかし、老婆の表情は硬く、他人から語りかけられる事を極端に拒むような表情で、とても話しかけられる状態ではありませんでした。
仕方なく、その場はそのままにしてハイツに戻ったのですが、どうしても、気になって仕方が無かったので、2時間位してもう一度、洋服を着なおして、見に行ってみると、やはりそこにジーっと腰を降ろしたままでした。

そのままにしても置けないので、近所の江古田の交番に報告しに行きました。
「分かりました。直ぐに行きます。」 「流石は日本の警察、老人に対してもちゃんと面倒見るンだ!」少し、いい事をした気になって、気持ちよく仕事を続けました。

明け方、もう4時を過ぎてしまって、5時近くになったのですが、ふと、またぞろ、気になって又100円ショップに行ってみました。

「え〜!」
超、驚いたね!!居たんだよね〜ぇ、まだそこに!!座ったままで・・・!!
どうしたんだい??日本の警察は・・???


私が20代や30代、否さ、40代頃になっても、老人が街の路傍で一日中佇んでいる、何て光景は見た事は無かったよ! 
夜な夜な徘徊する老人を見かけるようになったのは、この、ほんの3,4年の事だよ。

何と情けの無い世の中になってしまったんだろうねぇ。

責任の放棄!と一言で片付けてしまえばそれまでですが、今流行のニートという現象も「年を取って(或いは病気をして)死ぬ。」という誰にでも与えられている自然の摂理を知らない(知らないという意味は抽象的で本当の意味では理解できていないという意味です。)と言う事から来ています。
今の子供達は身の周りの死を見ても涙を流すことすらないでしょう。
たとえそれがおじいちゃんであったとしても・・・です。田舎の家に住んでいて1,2年に一回かしか会わなければ、「おじいちゃんが死んだ。」なんていわれても身近に接したとは言えないのだから、本当には理解出来ないでしょうしね。

ワンちゃんや猫ちゃんは、人間よりもっと短いスタンスで生きています。
子供自身がワンちゃんや猫ちゃんと一緒に散歩をして、食事の世話をして一緒に遊んで・・・。
しかし、その大切な身近なお友達が病気になったり死んだりする・・・・。そういったことで子供達は本当の意味での死や別離を理解できるようになるのです。

競争でしか人を判断しようとしない塾や、ゲームなどでいくら飼っている猫が死んだとしても、リセット出来るバーチャルな世界なら、同じようにお父さんから勉強の事で怒られたとしたら、思いっきりバットで殴って、ぶっ殺して、でも「悪かったな。」と思ったら、リセットすれば良いのだから・・・・!

何故、テレビなどで少年犯罪が増えているの?毎日のように少年が関係した殺人事件があるの?

でも犯罪にならない(或いは犯罪になったとしてもニュースにもならない)援交等の少女達を取り巻く事件はテレビで放映される犯罪の数よりも何倍も多いのですよ。

それもこれも、生や死、生きると言う事の本当の意味を理解しないで、気に入らなければ「リセットすればそれでいいんだ。」と思っている若者達なのだから。
それ以上に、自分自身が生きて行く・・という事、自分の命に対しての価値観すら持っていません。
自分が死ぬ事すら、その価値がないのだから、人様の命の価値なんかある分けないのだよ。
だから、自分の子供を、事も無げに、殺せるのだよ!!
命の価値が分かっていないのだよね。

動物は人間がいないと生きていけません。
だから、幼い子供達が自分で育て、慈しむ心を育てるのです。
ペットを愛玩動物か単なるアクセサリーのような飼い方をする女性が増えてきているのも、きになります。
子供をペットとしてしか愛せない親達が増えている事も、事実なのです。
本当に、動物を愛せない社会は、親が子供に対しても本当の愛情を注ぐ事はありません。
だから、自分が年を取った時にも、そのしっぺ返しが来てしまうのです。


哀号、哀号・・・・
ジーグが死にました。
とても安らかに・・・・・!
たくさんの人達の愛情を、その小さな体いっぱいに受けて・・・・・。


ジーグや、私達の所に来てくれて、ありがとうね!

きっと、またいつか逢えるよね?

合掌