腰痛といっても30代の後半ぐらいまでは、バッティング・センターで腰を捻ってぎっくり腰になった事があるぐらいで、腰痛とは無縁の生活をしてきました。
体重も中学生の頃から35歳ぐらいまでの間は、55kgから一度も変化した事は全くなく、常に何時も安定していました。身長はその頃は170cmはあったので、身長と体重のバランスでは、痩せ過ぎになっていました。
35歳を過ぎた頃から、突然に急激に肥満が始まりました。
勿論、その当時から肥満対策は頑張ってやっていたのですが、それが全部裏目になって、リバウンドを繰り返してしまいました。

40代の後半に差し掛かり、肥満が本格的になってから、徐々に腰痛に悩まされることになってきました。
最初は大した痛みではなかったのですがカイロ・プラクティックでとても良い先生がいるということで千葉の教室から九十九里の方まで車で通い始めました。
しかし半年ほど通ったあたりで逆に猛烈な腰痛に襲われる様になって
、直らなくなってしまいました。
(それ以前からも少しずつ痛くなり始めてはいたのですけど。)
東京では、兄貴の知り合いの医者のところに行って
「坐骨神経痛になったのでけど見てください。」
「何処が痛いですか」
「坐骨神経系にそって足先まで痛いです。」という会話をしたのですが後で、兄貴から「先生が『坐骨神経通なので見てくださいといわれたんだけど、僕は何をすればいいんだ!』と文句言っていたよ。」と怒られて初めて、素人が病名をくちにしてはいけない・・ということに気がつきました。
腰痛と坐骨神経痛を併発してしまったわけです。

痛みを騙し、騙し、しながら車で長崎まで帰省した時に、自宅の病院で、教室の休み中に一月程、毎日ビタミンB12の注射をしたのですが、全く改善が見受けられず、養父からの医者の立場の診断としては
「後は手術しかないなア。」という話だったので、「手術は最後の手段にしたい。自分なりに色々やってみてからそれでも駄目だったら、手術を考える。」ということにして、東京に戻ってから、江古田の事務所の隣の針灸の所に通い始めました。
歩いて2、30メーターの距離だったし、私が歩ける距離がそれくらいだったので・・。

針は意外と体に合っていたみたいで、2,3ヵ月後には大分痛みも取れてレッスンなどに支障なく歩けるようになってきました。
しかし、半年を過ぎた辺りからは、全くその後の進展がなくなって、それ以上の痛みは取れないままになってしまいました。

私の弟子の一人で、音楽プロダクションに勤めている人が、
「***駅にとても針の上手い先生が居る。」ということで、連れて行ってもらいました。
電車で急行を乗り継いで1時間ぐらいの距離だったのですが、それぐらいは何とか歩けるぐらいに回復していました。
そこの針の先生は
「芦塚さんは太っているから、通常の針では届かないのですよ。」ということで中国針を打ってもらうことになりました。
中国針を打てる人は日本には、あまり居ないというか、日本人で中国針を打つ人もいないそうで、その先生の下でも、私を含めて2,3人しかいないそうです。
痛い!というよりもズブズブとえぐられるような感じで、確かにこれは普通の人には無理だと実感しました。
しかし、気持ちの悪い分、中国針は私には良く効いて、残っていた腰痛の痛みがすっかり取れてしまいました。
それからほんのわずかに残った腰痛の痛みをとるために、隔週ぐらいの間隔でずっと通っていたのですが、ある日突然、自宅で寝ていたら、全く動けなくなって、寝返りをする事すら出来ない程の痛みが全身を襲います。

それは発表会の3,4日前の出来事です。
直接的には教室のリストラなどで、「引越し」と「発表会」の準備がとても大変で車の乗り降りも痛みを堪えながら頑張っていたのですが、
「これはその内、良くないな。」と嫌な予感を抱きながら、それでも仕事に追われて仕方なく動いていたのですが、とうとう、ハイツで休んでいる時に、痛みが全身を襲って、全く動けなくなってしまいました。

それまでも腰痛が酷くなって、トイレに行くのさえ、這って行くとか、物につかまりながら行くとかは、しょっちゅうあったわけですが、身動きすら(寝返りすら)出来ないような強烈な痛みは初めてでした。

大急ぎで、医者から貰って来てもらった痛み止めの座薬も、強烈な麻酔も効かず、ついに救急車を生まれて始めて呼ぶことになってしまいました。
救急車には知り合いの医者の先生が事務所の直ぐ近くの病院を紹介してくれたので、そこに緊急入院してICUに入る事になりました。

体が全く動かせないので、ノートを持ち込んで、病床記を書く事すら出来ませんでした。という事で、以下の文章は、あり合わせのmemo用紙に書き留めた日誌です。


付録:S病院入院記

体が全く動かない中で、そこら辺の紙切れにメモったものを、ワープロにテープおこししてもらいました。
体が動かないので机で書くことが出来ません。
空中で書こうとすると字も汚くなるし、それ以上にボールペンでは天井を向いて文字を書くと、すぐにインクが出なくなります。
(今は無重力の状態でも書ける日本製のボールペンが150円とか300円ぐらいで売ってありますが、私がS病院に入院した当時にはまだそういうボールペンは日本では売っていませんでしたが、偶然、病院に入院する1年以上も前に、通販でNASAの制作のボールペンを当時2万円で購入していました。

仕事上、「上向き」に書く事が多いので、
「これは・・・!!」と思って買ったのですが、買った事は、腰痛とは関係がなく、全くの偶然なのですがね。)

いずれにしても、自分が病院に入院して、身動きが出来なかったとしても、私には、コンクールに出ようとしている生徒や、留学しようとしている生徒などがいるので、身動き出来ない状態のままに、イタリア人でイタリアの音楽大学で生徒を指導している友人に手紙を書いたり、プロを目指してコンクールや留学をしたい・・と思っている生徒のために、
「プロになるには」というアドバイスの小冊子を書いたり、「書くということが如何に大変か・・?」という状況の下であったとしても、指導者としては、ベッドで身動きが出来ない・・としても、やらなければなりませんでした。

しかし、入院中に(イタリアから身元引受OKの返事が来る前日に!!)プロを目指す生徒は他の有名な日本人の先生の所に代わってその先生も下から留学をしました。
私は彼女をhochschule(ホッホシュウーレ)に行かせるつもりだったのですが、彼女は同じ場所ですが、コンセルトバトワールに入学しました。
ホッホシュウーレは音楽大学ですが、コンセルトバトワールは高校になります。
そりゃ、教室で勉強していれば、入学出来るわな〜!!

また私が指導していて、音楽を目指している生徒達も全員、教室をやめて、他の先生の所に代わって行ったのです。
冷たい・・・??
・・・いや、それは仕方のないことですよ・・。

それは、私が、何時、病院を退院出来るかが、全く分からなかったからで、その間、私の弟子の先生に指導を仰ぐのは、良しとしなかった分けです。

音楽を専門にする以上、何時退院出来るか分からないのなら、その先生の下に留まっているのは得策ではないからです。

だから、当然、音楽が専門でない生徒、所謂、趣味の生徒達は、皆、私が退院するまで待っていましたがね。
私が目に掛けて、一生懸命指導した人から、教室をやめて行きました。ハイ!

まあ、そんなもんですよ!人間なんて・・・?? 人生なんて・・!!

以下はハイツから持って来た、メモ用紙にぎっしり書かれた病床日誌を文章起こししたものです。

98年:7月10日
病院の介護について

病院に入院する患者は
@ベッドから立って歩ける患者
Aベッドに座れる患者
B寝たきりの患者
の3種に分かれると思う。
そしてそれがその病人の出来る自己ケアについても全く変わる。
それに合わせて、患者への対応を心がけなければならないはずである。
しかし、それは看護のmanualにはない。

という事で・・・・
薬を渡されたのだが、薬を飲むための水がない。
看護婦に
「薬を飲むための水をください。」と言ったら、使用していない紙コップではあるが検尿用の紙コップに水を入れて持ってきた。

清潔なのかもしれないがあまりにも無神経ではないか?

手の届く範囲に水でもあればセルフケアも出来るのだが、自分が身動きが全く出来なくって、自分で準備が出来ないので、その事があった以降は、食事についてきたお茶を枕元に取っておいて、それで薬を飲むようにした。

そういったちょっとした心配り、気配りの無さが、養父の大学病院の最後の入院の時の看護婦の対応についても以前から兄貴達とも話していたことでもある。

細かいことを一つ一つを数え上げれば限がないことではあるが、人間としてのケアでよく言われるように、「自分の肉親に対しての思いやり」のように、「病人に対しての心遣い」を見せれば、細かい介護manual等の注意書き等は、必要はなくなると、思うのだがね。


毎晩暑くて痛いし、眠れない。

清拭用のお絞りが出る。(大2本)
そこで看護婦が言った。
「体を拭いてください。」
そりゃ自力で体を拭ける人は良いよ。
ベットで動けない(身動きの取れない)あたしゃどうすればいいの?

しかも、そのタオルに脂の臭いが染み付いている。
香水でも臭い消しに使えないのかね。

9:45
点滴が漏れる。ナースコールする。
15分たっても来ない。
再コール!!
それから5分待っても来ないので、自分で点滴を止める。
それからさらに5分位して
「点滴漏れたの?」とか言いながら看護婦が来る。
私の手の点滴の漏れた痕を見てびっくりしていた。
勿論、呼んでも来なかった事に対しての弁解は全くない。

エアコンが汚れていて利かないそうだ。
エアコンは洗えるということを知らないらしい。

12:00
今日の昼食のメインは秋刀魚の照り焼き。
左側の腰がいかれているので、座ることはもとより、右側を下にして寝たきりである。
常に使えるのは、左手のみである。
左手だけで、寝たきりで、食事をしなければならない。
食べさせてくれる人はいない。
横を向いたまま(横向きに寝たまま)、左手だけで食事してご覧??
お茶飲むことだって結構大変だよ。
ましてや秋刀魚ね!


入院2,3日目

私がこの病院に入ったのは救急車によって担ぎ込まれたわけで、実際に歩きで(視覚的に確認して)やってきたわけではないので、頭の中では何処にいるのか理解できているはずなのに、実際には全く理解できていない。
現実的には、今、病院の何階にいるのかすら分かっていないのだ。
だって、歩いていないのだから、分かる分けがないのだよ!!

入院当日の夜、隣のベッドで、
「私は殺される!」とか、わめいていたおばあちゃんが私に「これから手術なんや!」といったが、横からナースが「おばあちゃん!3日前に手術は終わって、今ICUにいるんでしょう。」と話しかけていた。
病院に対しての文句を私に対して(隣にいたので)ぶつぶつ延々と話していたが、どっちみち痛みで眠れないので、いい退屈しのぎにはなったが、おばあちゃんのぼやきにいらいらしているナースのカリカリがこっちにまで回ってくるのは困った。


そのうち疲れきって夢を見ていた。
私の生家で30年以上も人の住むことのなくなった家だ。

廃家になったその家の座敷に座り込んで,純子と片付けをしている。(夢というよりは、人の取り違いで、ジュンコ違いで、実際に生家を片付けに行った事はあるのだから、記憶なのかも知れない)

何が気にくわないのか片付け物を片っ端から隣の部屋に放り投げている。

そのうち緑茶も放り投げる。
乞食小屋のような隣の部屋には、薄汚れた布団が敷いてある。
人生の心残りと、悲哀を感じて鬱になってしまう。



98年7月17日

診察のために一階まで行くことになって車椅子が来た。
外来では診察のために2,3人待たされた。
普段だと当たり前のことなのだろうけど、ベッドで動けずに、寝たっきりで痛みを堪えている私にとっては、車椅子で待つという事は、痛みとの格闘で、地獄の苦しみである。

患者が常にどういった状態かを知っておくことは病院の最低条件であろうと思うが、如何だろうか。

外来患者ならばなるべく待たなくていいように伝達をしっかりする事。
「後、何分で来てね。」とかの伝達はそんなに難しいことなのだろうか?

患者は検温は何時かとか最低の生活のリズムのパターンを要求される。
看護婦は何時に何をするかでは、ケアもへったくれもない。
一人一人の患者の体調や精神状態の申し送りがあって初めてその日一日の看護が成り立つはずだし、医者も必要最低限医療の条件に看護士側の意見を反映させなければならないはずである。

98年7月18日

何を今更になってという感じであるが・・(次のメモが見つからない。何を書こうとしたのだろうか・・??)

98年7月22日

今日は医者と看護婦の伝達が上手くいっていなかったとかで、医者が怒り出して、検査が急遽中止になった。
それよりも、患者の事を考えるべきなのでは・・???


98年7月23日

看護婦(ゴミ回収担当の人?看護助手??)が私のベッドの手すりに引っ掛けてある尿瓶の箱をひっくり返した。
「自分の服にかかってしまった。大変だ。」といって、謝りもせずすぐに着替えに行ったきり、箱の中にこぼれた尿の片付けはせず二度と戻ってこなかった。

看護婦達は周りが汚れたとしても
「掃除は掃除担当の人がするから。」と言って、本人達が汚した不始末であったとしても一切掃除片付けはしない。

掃除は外注で一日一回業者のスタッフ達が回ってくる。
午前中が多いので、それ以降の汚れやごみは次の日の掃除になる。

しかし、幾ら何でも、尿をこぼしてそのまま・・・は、ないだろう。
それに自分本人がやったことで、寝ている患者がやったことでもないのにサー!

それにしてもいろいろな病院で尿関係のトラブルは一番多い。

此処のS病院でもたまった屎尿便を交換してくれなくって、見舞いに来てくれた人にトイレに捨てに行って貰ったり、後日歩行補助具で歩けるようになってからは、人が寝静まってから補助具を押しながらトイレに捨てにいったりした。

なにゆえ、人が寝静まってからか、というと、補助具は両手で補助具に寄りかからないと自分の体重を支えることが出来ないからだ。
つまり、両手、両肘が完全に塞がった状態で、大きな屎尿ビンをどう持ったら良いのかな?
結構技術がいるんだよ。

S病院の後の話なのだが、今回、入院した冠動脈のバイパス手術での入院でも、看護士達がいつも忘れるのは、屎尿瓶が満タンになったのに、気がつかないということだ。

今回のバイパス手術で入院する前の、大学病院でも、その点では同じであった。

特に今回は腎機能検査も含んでいたので、尿の量だけではなくその他のことも調べていたので、瓶にいっぱいになった尿を、自分勝手に捨てられなかったので、何度も何度も、看護士を呼ばなければならなかった。

S病院の話に戻って、腰痛の痛みを抑えるために、背中の骨に直接麻酔薬を注入するという方法を取る事になった。

立つ事は出来ないのだがベッドに座ることまでは出来るようになったし、歩行補助具を使えば何とかトイレまで歩くことが出来るようになった。

又、その後の努力の結果、歩行補助具はこの病院の最上階にある喫煙室(洗濯室と一緒になっているのだが)まで歩いていくことを可能にした。

その喫煙室で、同じような病状を持つ人達と会話をする事で、いろいろな腰痛の情報を得ることが出来た。

このメモ書きの後、更に一月近くも入院生活が続くのであるが、治療としてのこれ以上の状況の改善は見られなかった。

腰痛の痛みを取る方法の一つに、背骨に金具を挿入する方法があるのだが、その場合は大学病院へ転院することになるし、現に喫煙室の仲間の数人はこの方法で腰痛の治療をしている人達であった。
「金具は1年しか持たないので、毎年手術して交換しなければならない。」とか結構恐ろしい言葉が多かった。

「手術してよかった。」という評価をしている人は、一人もいなかった。

病院で、腰痛を治す事は、もう諦めて、病院にいながら、別の解決法を模索し始めた。
商店街の行きつけの文具屋のおばあさんから
「それなら良いカイロの先生がいるよ!」というアドバイスを貰った。

しかし、なかなか外泊の許可が下りない。
何せ一人では全く歩けないのだから。


今日は珍しく看護婦の方から「体を拭きましょうか?」といってくれた。
ありがたくお願いしたが、その看護婦は、清拭の途中で診察に呼ばれ、診察に行ったが、その後清拭の方は忘れ去られてしまった。

一人では何も出来ないという入院だったので、2ヶ月の入院生活の中で風呂に入れることは一度もなかった。

看護婦に頼めば外注で散髪や洗髪などを頼むことが出来て、そのための器械(道具)もあったのだが、それを私が知ったのは退院直前の事であった。

というわけで、2ヶ月間清拭と洗髪には苦労した。

水のいらないスプレー式の洗髪剤とか、清拭用のスプレーなどを買い込んで苦労していたのを見ていたはずなのに、そう言った事に何らかのアドバイスをくれる看護婦は一人もいなかった。

最初は看護婦から「この薬を飲んでください。」と次の5日分の薬を渡された。
しかし、前回の薬がまだ残っていて、しかも今回の薬と内容が変わっていた。
薬の内容の説明は全くなかったので、後で来た看護婦に薬の説明をさせたら、
「この薬、もう飲んでしまいましたか?」と言われたので「いや、まだです。」と言うと「じゃあ、この薬は飲まないでください。」といわれてしまった。
一人一人の看護婦の言う事が違うので困ってしまう。
どうすりゃいいの?
それで一人の看護婦のいうことを聞くと、別の看護婦が
「何で私の言う通りにしないの!」と怒り出すんだよ!?


このS病院の入院記は、看護師の悪口みたいになってしまったのだが、この次の心臓の手術の時の病院も、私立や国立の大学病院の看護師達も全く同じ事なのだ。

介護にしても、看護にしても、何かが違うのだよ。

それなのに、本人達はすこぶる真面目に一生懸命に看護しているつもりなのだよ。

ピント外れの音楽教育を受けている日本の音楽大学の学生達とも一脈相通じる物がある。

肝心要の土台の部分が違うのだよ。
だから幾ら勉強しても、何かが足りない。

勿論、これは介護の話ではなく、医者も同じだよ。

検査のdataだけを診断の拠り所として、患者の話を聞こうとしないから、5年間も患者が言い続けている病気を見逃す。

「素人には病気の事は分からない。」という前提に立っているからだよ。
でも、自分の事は、自分にしか、分からない・・とは、思わないのかな?

その患者の言葉を
「どう翻訳して、正しい病気のappealに繋げて行くか?」それが、優れた医者と、ヘボの藪医者の違いなのだがね。

その内、コンピューターの方が名医になってしまうぞなもし・・!!

2016年の7月の長崎への旅行
純子を迎えに行く車の中で、坐骨神経痛が再発してしまった。
おまけに、「超!」が付く、下痢に襲われて、純子を5時間近く待たせてしまった。
その話は、日記風にFacebookにupしてあるので、転載する事にしよう。

紀行文
ふるさとへの多分最後の旅行
その3(旅の初日31日から次の日の8月1日へ)
椎名町⇒滝野社 体調不良の始まり?始まり?
今日は、いよいよ帰省の旅の始まりですが、でも、遅くてもお昼の12時頃には事務所を出発しないと、四日市のお迎えに間に合わなのですよ。とてもとても、直ぐには出れそうにもない。「どうすんべ〜ぇ??」てな事をFacebookに書いている時間は無いはずなのだがね〜ぇ??
1時過ぎに起きて、もう、半も過ぎた!でも、体が動かない・・。正確には、11時には事務所に行って準備を初めて12時には出発なのだが、もう既に、2時だ!3時間も遅れている。
実は、それには理由があります。一昨日も昨日も、・・というか、ここ2週間3週間、摂眠障害が続いて、朝起きのrotationを守るのが難しいようなのですが、11時timelimitの今日も、朝の7時頃になっても、眠れなかったので、ついに諦めてマイスリーを飲むことにした。長丁場の車の運転がままならなくなってしまうからです。
本当なら市販のドリエルの方が眠りが浅くて寝覚めも良いのですが、薬箱の中に見つからなかったので、処方薬になってしまった。マイスリーはすぐにでもよく眠れるので、そこの所は良いのだが、起きる時になかなか意識が戻らなくって、体が言う事を利かなくて困る。心臓の手術の前の時には、2錠飲んでも、全く効かなかったのに…である。朝のトイレに行くのにも、あっちにぶっつけこっちにより掛かり・・と散々なのだよ! お袋の姿を見ていると、今の私ようなの体の動きなので、私のこの情況は加齢によるものなのだろうか??着実にまた1歩ずつ確実に老いている証なのだろうか??
後になって、よくよく考えてみると、そういう時には、出発するのを諦めて斎藤先生には、東京まで帰ってきて貰って、次の日の1日に鋭気を養って、改めて出発すれば良かったのだよ?  
しかし、たった2週間で家の残された荷物の整理や、不動産の処分の手続きをするには、そのたった1日が勿体なかったのだよね?
少々の無理ならこれまでも、度々やって来た私たち団塊の世代なのだよ!企業戦士は滅私奉公、お国と会社のためなら、エーンヤコラ?
普段なら一番早くて5時間で行けるのだけど、いつもは安全パイを取って、7時間で早く着き過ぎて店も開いてなくて畑の中を小一時間もくるくると回った事もあるのだが、同じ道を今回は8時間以上掛かった事になる。
休憩を多くとった分けではないのだが、スピードが出ないのだよな?勿論規定の80キロから100キロで走っているはずなのだが・・・・?
勿論、7時半の待ち合わせには、間に合わせるのは、不可能なのだが、四日市まで迎えに行くのはムダなので、私の車と斎藤先生が四日市からの電車で名古屋方面に向かうのの中間地点で合流しようと、mailを打つのだが、手が震えて文字が打てない? 普段の元気な時ですら、keyの大きさと指のサイズが合わないので満足に入力出来た事はないのだから、手が震えていてはこの細かいキイーを打つのは、不可能に近い? それでも何とか斎藤先生が高速の出口に近いJRの駅を探してくれたのだが、そこは名古屋の市内であっても、車で走ると、四日市に向けて直接走るのよりも、むしろ時間が掛かって遠いのだよ。 結局待ち合わせ場所を変えて、わざわざ時短を図った意味は全くなかったのだよな。 四日市からは、普段は甲賀の里を経て京都へ抜けて行くのだが、東名高速を真っ直ぐに走って時短をはかろうと思ったのだが、東名とJRの駅が接近している所が分からない。道路地図にはJRの駅は載っていないし、普通の地図には高速の出口は詳しくは書かれていないのだよ? そのためにも、ナビの地図をリニューアルしようとしたのですが、この機種のversionupがなかった…という話に繋がるのだよな。諦めて、どこを走っているのか分からないままに、ひたすら走り続けるしかない。5時間近く待つのなら、東京に戻った方が良かったのだよ。
止かも、昨年の10月に新しい最新versionにしたはずのナビの地図が、第二東名の途中から表示されなくなって、到着時間の連絡もどこに着くかも表示されなくなってしまった。出発直前にナビの地図の最新versionをダウンロードしようと、ネットで調べたのだが未だ発売されていなかったのにも、関わらず、なのだが・・・・
通常は宿泊地が二箇所決まっていて、東京から、2泊3日で到着する。しかし、養父の突然の死の時には、飛行機のチケットがてに入らなかったので、24時間で、東京?長崎間を走破した。
それなのに、今回は遅れに送れて、最初の宿泊地である滝の社に着いたのは予定の夜ではなくて、昼過ぎであった。でももう体力の限界ということで、ホテルを延長して、夕方まで寝た?
それからが悲劇の始まりである?
しっかりと、寝たので、何とか疲れは取れたのかな?…っと思いながら、その日の夕方から、再び高速に乗ったのは、良かったのだが、超P -don (水下痢)が始まって、S A ではなく、すべてのP A に停車しなければならなくなってしまった?
痛みとP-don を堪えながら、必死に、頭から、油汗を出しながら、車を走らせた涙ぐましい努力の結果なのだが…車が前に進む事はなかったのだよ?
ということで、目的の第二宿泊地迄にたどり着く事はなく、滝の社から、ほんの少し進んだだけで、挫折してしまった?
「旅に病んで 夢は枯野を駆け巡る?」 
病院に行くか?救急車でも呼ぶようにと言われたのだが、このまま、緊急入院ともなると、目的も果たせないままに、それで夏休みが終わってしまう?来年に引き伸ばす事は、もう出来ないのだから、なにがなんでも、何とか長崎大学病院までたどり着ければ、私の父親の教え子達である教授達はもう定年でいないとしても、未だ私の同級生達の何人かは、教授をやっていたのだから、無理難題も聞いてくれる…?…?…?・・・否…? やっぱりもう同級生達も、もう、大学病院にはいないか…??

紀行文
ふるさとへの多分最後の旅
その4(8月2日から4日の長崎着まで)
滝野社(7月31)⇒津山(8月1日)⇒広島北(8月2日)⇒瓜坊との遭遇!!(8月3日0:24分)
第二東名から、斎藤先生を何とか拾って、名古屋から少し走った東名のPA で、少し車を止めて、ほんの20分ほど休憩をして、気を取り直して第一宿泊地の滝野社まで、予定時間からは大分遅れたのだが、深夜には、何とかたどり着く事が出来た。(ここまでが7月31日です。)
第一宿泊地では、深夜に辿り着いたのだが、急いで仮眠をして、チェックアウトのギリギリの時間まで休んで、疲れが取れたのかな?という感じで、お昼ぐらいから、また次の第二宿泊地点を目標に、頑張って車を走らせ始めた・・・のだが、いよいよ体調不良が、少しずつ酷くなって来たのですよ?(ここからが8月の1日のお話です。)
その体調不良の予兆は、先程も書いたP-don (水下痢)の始まりでした。
そう?・・・東京から四日市迄の長旅にでも、斉藤先生を拾ってからの、名神から中国道に入ってからも、全く、固形物が食べれなくなっただけではなく、スープやお茶さえも受け付けなくなってしまったのですよ? それなのに、P-donが酷くなって来て、10分起き・・なのですよ。
それだけならまだしも、眠ろうとしても、気分が悪くて眠れないのですが、しかし、眠れないのは合宿の前からだったよね?
この状態で、第二宿泊地の下関まで向かうのはとても無理だし、もう体力の限界を感じてしまって、滝野社から一番近場のIC である津山のIC で、すぐに高速を降りる事を決断しました?
この決断は、非常に正しい決断で、なんとかかんとか頑張って、ホテルに到着したとたんに、留まる事のないP-don と薬の全く効かない腹痛と、咳による頭の痛みに、全く眠る事も出来ずに、七転八倒をしてしまった?(ここからが8月の2日のお話です。)
まさに、救急車を呼ぶか否かの判断をするぐらいの病状でした。
時間軸が狂っているので、他の章に書いてしまったのだけど、「救急車で病院に行ったら絶対に入院になるな!?」という判断で、それなら、無理をしても、長崎大学までは、辛抱しようと、決断したのも、この津山のホテルでした。
ギリギリ延長をして、夕方に再び高速に乗ったのだけど、それからも、P-donが続いて、総てのPAでトイレに駆け込みながら走ったのですが、やはり、体力の限界を感じて、次のICの広島北で降りる事に決定しました。
安佐のICのレストランで従業員の人に尋ねたら、このまま中国道に入ると、もう宿泊の施設は無い・・という事だったので、急遽、山陽道の広島方面に宿泊を求めて南下しました・・。(ここからが8月の3日の0時24分頃になります。)
広島北から、最も近場のホテルは、とんでもない山奥のとんでもない奥まった場所にあって、片側は川で、反対側は、「今は枯れ野の箒草」の畑でもない里山でもない、山間地で、一車線ギリギリの真っ暗な道で、突然、瓜坊に遭遇しました?
親と二、三匹の兄さん瓜坊達は小さな崖の隙間をよじ登って、母親と一緒に、逃げたのだが、後の小さな4匹は、車の前で慌てて逃げ回った?
実は、あの可愛い瓜坊の写真は、この大変な状況下で、ナビに従って、山奥の道を走らせていた時の写真なのですよ?
昨夜は、次のポイントまで走らないで、安佐で見切りをつけて、広島北で降りたのでまたゆっくりと眠れて、体調も少し戻ったような気がするのだが、久しぶりにある程度眠れたのは良いのだが、体が寝疲れで、腰が痛くなって、逆に寝れなくなってしまった。

紀行文
ふるさとへの多分最後の旅
その5(長崎着の4日の0時まで)
広島北で、結構長時間の休憩を取ったおかげで、4日は、車が真っ直ぐに走るようになって、速度も80キロから落ちる事はなくなった。
しかし、安全パイを取って100キロではなく、90キロの定速走行をする事にした。一応、旅行の遅れを取り戻すために、休憩は無しにして、ガソリンスタンドに寄るだけで、頑張って走って、出来れば3日の内に、到着したかったのだが、4日に5分10分は過ぎてしまった?
事前に、水道局に電話をして、止水栓を8月の1日から15日まで開いて貰ったのだが、水道局の人から、「今年の一月の大寒波で、水道管から水漏れをしている」、ということで、水道は使えるようになったのだが、「水漏れが酷い?」ということで、着いたら自分達で止水栓を開けることになった。
駐車場に車を止めて、早速、「どこから水漏れがしているのかな??」と、水道の止水栓を開いてみたらな、な、な、何と、ザーーッという噴水のように、水の吹き上がる音がする。慌てて止水栓を止めて、「これは大変だ?どうしよう?」ということになったのだけど、水がないと、トイレにも行けないので、一度、部屋中の蛇口を開いてバケツや風呂場や洗面所の栓を閉じて、水が溜められるようにしてから、もう一度、止水栓を開いて、応急の水を溜めようとしたのだが、全く部屋中の蛇口からは水が出ていないのだよな??さあ、困った?
トイレはどうしよう?
ふと思いついて、昨年、雨漏りの箇所に置いておいたバケツを見ると、何と満杯に水が溜まっている?
助かった?これでなんとか朝までは、トイレに行ける?
それで、取り敢えずは一段落なのだが、頑張って、折角、日捲りの12時チョイ過ぎには到着出来たのに、何だかんだで、3時過ぎにはなってしまった!!
昨年は雨漏りだけだったのだが、今年は色々と何が起こるのか思いやられる?
でも、これが最後の奉公だと思い直して、今回だけは頑張ろうという事だよなぁ?
実は、この後に、頑張って詳しい経緯等を書いていたのだが、画面が突然小さくなって、入力画面がなくなって、やっとこ開いたと思ったら、2時間がかりで書いた文章が全くなくなってしまっていました?超ショック?やはりスマホは不安定で、仕事にならない?
仕事をするために、旅行には毎年ノートパソコンを持って来て、部屋の片付け等々の雑用で疲れたたら、ノートパソコンで仕事をして、気分転換をするのですが、斎藤先生が合宿中に、Wi-Fiを紛失したらしく、車中でそれを聞いて、チョイ・ショックでした?
事前に東京にいる時に、その旨、連絡を受けていたら、私なりに何らかの対応が出来たのに、旅行の途中の車の中で、突然聞いても、何の対応も出来ないのでね? 
最悪の場合でも、b- mobile が2万円分残ったままで解約しているので、契約を復活したら、写真は無理でも、mail等は何とかなったかも知れないのだが?
ということで、この文章も、スマホのスーパーウルトラ小さな画面で打っているのですよ?姿勢は勿論なのだが、目と肩が痛くなってしまうのですがネ?
今日は、2時間の努力がふいになってしまったので、もうすっかりと、やる気はないなあ?

紀行文
ふるさとへの多分最後の旅行
その6(4日実家の整理と残務整理)
朝は一番で、不動産屋と書類を作って、それから、運送業社に電話をして、タンスや机を運送する時の見積りを出させているのだが、まだ電話がない?
ない電話を待っていてもしかたがないので、早々と部屋中の後片付けを始めたのだが、お袋さんが認知症になって、ホームに入ってからなので、何年越しになるのだが、片付けても、片付けても同じものがまだまだ幾つも出てくる?今日1日だけでも、引っ越しのトラックを雇った方が良いぐらいの荷物の量になってしまった?
それにしても、不思議なのだが、お袋の葬儀の時には、あったはずの巨大なかなり高価なカメラの除湿機のケースが、2週間後の8月に、部屋の整理に、再度、訪れた時には、もう、なかったのだが、誰か合鍵でも持っているのかな?
お袋の認知症が始まってからは、金目の物から、片っ端になくなってしまって、タンスや、現金等もなにもなくなってしまっているのだが、お袋は、「泥棒が入って…」とか、「隣の部屋に、誰かが居て…」とか、しょっちゅう電話が入って来たりしたし、お袋自身も警察に言ったりしたようなのだが、認知症ということで、警察もあまり真面目にはうて合わなかったようだ。私が実家に訪れても、お袋の話を聞いても、認知症の話なので、どこまでが、真実で、どこからが妄想なのかの境が分からないので、私自身も、他人が入っている事は理解出来るのだが、今ひとつ警察に行くまでは、確信が持てなかったのですよ?
猜疑心が強くなって、自分の知っている人に対して、疑いを持っ事は、認知の症状の典型的な形なので、それは問題外の話なのだが、それにしても、お袋が出来る範囲を越えた範囲の出来事が多すぎたのだよなぁ?
お袋が認知が酷くなって、ホームに入ってからは、ホームを一歩も出る事は出来なくなったし、ホームの部屋には、なにも置くことは出来ないのだから、誰が持ち去ったのだろう?
私も、学生時代から、私が親友だと信じていた人に裏切られてしまって、人の悲哀を感じてしまいました?50万、百万の金を返さないで、大学で、生徒を指導している先生や、豊かな生活と家族に囲まれて、幸せな生活を送っている昔の友人達は、その自分を家族に知られた時には、どうするのだろうか?
認知症を良い事に、金目の物から、こっそりと持ち去って行く事は、立派な窃盗であるとは、思わないのかな?
自分の友人に、借金をしたままで、10年20年、何度催促しても、その場しのぎの言い訳だけで、逃げ回ったりする事を何とも思わない人達は、自分の幸せと天国へ行く事を夢見ながら、平気で他人から物を奪い、人を殺すis と、意識の点では、なにも変わらないと思うのだがネ?
でも、私が昔、親友と思っていたやつらも、彼らが30代40代の頃には、普通の常識を持ち合わせていた、人に信頼される人間だったのだがね?
私は、幾ら歳を取ったからと言っても、金や物に執着する人間には、なりたくはないなあ?これも、老醜のひとつだと思うのだけどね?
老人問題なんて興味がないって?
ノルマばかりを上げる事だけに一生懸命になって、クライアントの事は全く考えようとしない若い営業マンとは、もう取引はしない事にしたのだよ!営業の電話をかけて来て、「仕事中だから…」と言ったら、「電話じゃないからいいだろう?」と、ストーカーのように、mailを何度も送りつけて来る人とは取引する分けはないだろうよ?
ある会社の人が、問題を起こして、「私は、同じ会社かも知れないけれども、私はその人ではありません?」と言われても、残念だったね〜え?そんな会社とは二度と取引はしないのだよ? 一度失った信頼を取り戻せる事は、基本的にはないのだよ?


紀行文
ふるさとへの多分最後の旅行
その7
エンドレスの片付け作業
明日は、もう8月の8日である。
明日で、長崎に到着して5日にもなるのだが、私は食堂のテーブルに座ったままで、ニャンコ号の置いてある車庫までも歩いていない?
通常なら到着したその日には、出前の皿うどんやチャンポンをお袋が近所のチャンポン屋さんに頼んでくれて、翌日の朝は、その余りで済ませて…というパターンが普通だった。しかし、その慣れ親しんだ郷土料理のチャンポンや皿うどん、長崎ラーメンのお店も、片っ端からお店をたたんでしまい、折角、長崎にたどり着いても、出前をしてくれるお店は、ほとんど無くなったし、デリバリーの専門のお店は、やっぱり美味しくないのだよなぁ?
長崎の街まで、出かければ、雲竜軒のポーズ、松屋の素うどんや、吉宗の茶碗蒸し、イカのフルコース、お金があれば、オコゼのフルコース等のルーチンの食べ物を食べに出かけて、鋭気を養ってから、色々な作業に入るのですがネ?
今回は食欲も、気力も起きないのだよなぁ?
それに、私の摂眠障害も、相変わらずで、昨年の帰省の時と同様に、ウダウダと、仕事にならないのだよ?
昨年同様に、斎藤先生は、朝早くから、夜遅くまで、コマネズミのように、くるくると働いてくれているのだけど、私は、今回も、腰が痛くて、椅子から立ち上がることすら出来ない?情けない話だよ?
それはそうと、昨夜(6日)の深夜のNHK の番組で、中村弘子さんの追悼特番をやっていたので、(最後のチャイコのコンチェルトの3楽章の途中は風呂に入ってしまって、一部、聴くのが抜けてしまったのだが)ほとんど全編を見てしまった?昔々、彼女が16歳の時にN 響とヨーロッパのツアーに出掛けた頃は、私は、まだ中学生、高校生で、音楽のおの字の勉強も、始めてはいなかったのだよなぁ?……と、暗たんたる気になってしまった?
ジュリアードに留学して、それまで信じてひたむきに努力して来た日本の音楽教育界のアカデミズムの勉強が、全否定されて、一度身に付いたその癖を取って、本当の正しい技術を身に付けたいと思っても、一度身に付いたものを、学び治す事は出来ず、また、やっと学んでなんとか取得できた音楽技術も、日本に帰国してみると、今度は、日本の古い教授達のアカデミズムに全否定されて、日本の音楽の常識とヨーロッパの音楽の常識の狭間で、堂々巡りに陥った彼女にとっては、彼女がピアニストという立場を貫く事は大変な困難に陥った…ということだそうです。
私がドイツ留学から帰ってきて、日本の大学で指導していた頃、中村弘子さんのNHK のピアノのお稽古が評判で、友人のピアニストの女性の生徒が、「TVにでるから見て欲しい」と言われて、「あの人のピアノの弾き方は最悪だから」と、断って来た事がありました。しかし、ピアニストの女性や、彼女の生徒の超可愛い女の子が、私のピアノ教則本の写真のモデルになってくれると言われて、中村さんのその少女へのレッスンを見る事になったのですが、改めて、中村さんのピアノのレッスンを見て、すっかり驚いてしまいました?
レッスンの内容そのものは、彼女の演奏とは全く違って、トラディショナルで正統的で素晴らしい内容だったのですよ?
模範演奏をした後で中村さんは、「演奏は私を真似ないでね?私も頑張って、この弾き方を治そうとしたのだけど、とうとう治らなかったのよ?あなた達は、最初から、そういった悪い癖を付けないように注意しなさい?」と言いながら、ピアノのタッチや、演奏の方法などを、注意していました?模範演奏とは違って、言っている事は全く正しいのですよ?
まずその事に、私はTVを見て、すっかり驚いてしまいました?
分かっているのに、出来ないと言う事は、ある意味では、悲劇なのですよ?
彼女が、ヨーロッパのトラディショナルな演奏法を主張する上で、ピアニストという立場で、日本のアカデミズムの音楽界から、身を守ろうとしたのかもしれないのだが、彼女が音楽の道を究めて行く上では、逆にその立場が、彼女自身の足かせになってしまったのかも知れない。
私にとっては、彼女がピアニストとしての自分を貫く事よりも、偉大な作曲家達の音楽に対する姿勢や気概等を素直に学んでくれたら、音楽技術的などうでもよい問題は自ずと克服出来ただろうに……と思っているのですがね? 
彼女の悩みを、精神論に逃げないで、真っ向から日本のアカデミズムに立ち向かう音楽のジャンヌダルクになって欲しかったのだが、音楽の精神論として、心に逃げてしまったのは残念である?(…等々と偉そうに言っているのだが、私は中村弘子さんとは、直接の面識はないし、演奏もほとんど聴いた事はないので、あくまでも、昨日のNHK の番組を観賞した上での、NHK の番組上での中村さんへの解釈を踏まえた上での感想なのですがね?)16歳の時のchopin のコンチェルトよりも、チャイコの方が更にエキセントリックになってしまっていたのは、残念だった。しかし、bach のパルティタは、彼女の死生感を表すような、なかなかの秀逸な演奏であった。でも、癌の宣告の後の演奏としては、録画の日にちが昔過ぎるのかな?
そのパルティタも緩徐楽章だけではなく早いパセージも是非とも聴いて見たかったのだが?
早いパセージも、緩徐楽章同様に典雅な演奏であれば、最高の演奏だと思うのだが?
私がドイツ留学から帰ってきて、当時評判の外人若手ピアニストの演奏会に出掛ける機会があったのだが(その当時は私も音楽大学でピアノの先生をしていたのですよ…?)、その演奏会に来ていたオーディエンスの華やかに着飾った若く美しい女性達を見て、「これはちょっと何かが違うぞ?」と感じて、それからは音楽界とは、一線を画すようになってしまった?
日本の音楽のアカデミズムの世界は当然としても、音楽のリープハーバー達の音楽への意識も、私とは、ちょっと違うのかな?と思えてしまったのだよ?


紀行文
ふるさとへの多分最後の旅行
その8
長崎への原爆投下の前日
(8月8日 父親の命日の前日)
「20年ぶりに口角炎になった!」
明日は、もう8月の9日、TVでは、オリンピックと天皇のビデオメッセージと、原爆のニュースで、長崎の数少ないTVのチャンネルは、目一杯である。
今日は、少し涼しくなった夕方から、今回の帰省で始めて街に買い物と、夜食を食べに出かけた。街では今回持って来ていなかった胃の薬や、睡眠導入剤(マイスリーとドリエルは持って来ていたのだが、ドリエルは2錠しか持って来ていなかったので…?)等を買ったのだが(今回の旅行では10年ぶり以上になるのだが)、口角炎が出来てしまいました。
音楽大学時代には、胃酸過多で胃潰瘍が中々治らず、大学の作曲の若手の先生に、「胃潰瘍は作曲家の職業病だよ!」、と言われてしまいました。
しかし、50歳を過ぎた頃に、慢性の疲労で、救急車で近所の病院に入院して、ついでに、胃潰瘍の検査をして、その5年前に新たに発見されたフェリコバスターピロリという胃酸の中で生きる菌の治療をして、30年来の慢性の胃潰瘍は、一週間の薬の投薬で綺麗さっぱりと治ってしまいました。
ということで、それからは、胃潰瘍は全く再発する事は無くなったので、口角炎もこの20年、全く出なくなりました。
その口角炎が20ぶりにでたという話です。
「長崎の街にぶらりとする事も出来なかったので・・」
長崎の街に、買い物をしよう・・と出掛けた目的のお店が、相変わらず、毎年の事なのですが、潰れてなくなっていたり、建て直しでビル自体がなかったり・・と、結局今回は、ほとんどの買い物は出来ないままに、時間切れで、唯一、吉宗で茶碗蒸しの定食を食べて長崎の食事は終わりだった。
しかし、生ビールを一月ぶりにやっと、おっかなびっくりではあったのだが、飲む事が出来て、少しでも、体力が戻って来ているのが実感出来て、喜ばしい限りでした?
「長崎ぶらり」の感想は、その程度のものかな??

紀行文
ふるさとへの多分最後の旅行
その9(8月9日の原爆投下の日)
「奇跡的にフェリーのチケットが取れた!」
朝から、毎日の荷物の整理の繰り返し。
今日は原爆投下の日で、式典のセレモニーをテレビで見ながら、なんとなく駄目元で「絶対に無理!!」と言いながら、再チャレンジした「新門司⇒東京のフェリーのキャンセル分」が奇跡的に取れた? 無理を承知でやってみるもんだ‥・??
これで、帰りは車の移動ではなく、二泊3日の船旅になる?
お盆休みは高速道路は「国民の大移動」の期間なので、長崎に着いたその日に、一応、フェリー会社に電話したのだが、当然ではあるが、「もう予約は一杯で、キャンセル待ちも大勢いる」との事で、それ以上のアクセスは諦めていたのだが…?
奇跡は起こらなければ奇跡ではない?
奇跡は起こるものなのだよな?
「集荷と査定」
明日は、クロネコが、家具類を集荷に来て、本類の査定に、ブックオフが来る?
駐車場がないと集荷してくれないそうで、家の駐車場を開けるために、朝の11時から、私の車をコインに持って行かなければならない?
超、暑い中、めんどくさい?
しかし、クロネコの集荷やブックオフの査定が、一日にまとまったのだから、「それで良し!」としなければなるまい?
「冷蔵庫が寿命で・・・」
昨年、整理に来た時にも、冷蔵庫がそろそろ寿命で、食料品が冷えなくなっていたのだが、今回も昨日くらいから、マジに、だんだん冷えなくなって来て、氷も出来なくなって来ました。
二階の小さな冷蔵庫で、氷を作って、一階の冷蔵庫に移し変えてなんとかしのいでいる。
なんとか、後、3日持ってくれれば良いのだが?
「尾曲猫」
写真左側は、尾曲猫の赤ちゃんです。すばしっこくって、全体がよく撮れた写真はピンボケで削除しました。あまりにも可愛かったので、誘拐して来たかったのですが、左側から2枚目の白猫の母親がしっかりと、ガードしていたので、連れてこれませんでした。アハッ!もう1匹は兄弟らしいのですが、とてもこの猫も可愛いのですが、残念ながら尾曲ではありません。食事を作る暇が無かったので、ただ一度、街に食事に繰り出した時に、尾曲がり猫のお店の前で撮影した写真です。ついでに、吉宗での茶碗蒸しです。


紀行文
ふるさとへの多分最後の旅
その10
(8月10日)集荷とゴミ出し
ゴミ出し
朝、6時代なのに、もう暑くなってきているので、慌ててゴミ出しをした。燃えるゴミ以外のゴミを全て、今日出さなければならないので、超大量のゴミが出て、コロコロ(写真参照)4往復のゴミ出しだ?
集荷
集荷の車を駐車場に止められるように、私の車を家から一番近いコインに持っていったのだが、それでも5分以上はかかってしまうので、日中のほんの一瞬で、タオルがビショビショになってしまったのだよ?
家具類等も、幾ら良い物であっても、家に収納出来なければ、どうする事も出来ない?兄貴の家と、私の家、それに事務所や、一時しのぎに教室にも、荷物を置かせて貰ったのだが、それでも、4分の1に満たない量が、片付いたに過ぎない。しかし、それぐらいの量であっても、ほぼ引っ越し荷物と同じくらいの値段になってしまった?しかし、一切がっさいを引っ越し荷物として持って行く分けには行かないのだから、金銭的な事は致し方ない?金額がかかったとしても、こまごまと持って行く物を決めて行く他はないのだ。
ブックオフ
持って行かない事にした立派な飾り本棚の中には、高価な写真集や医学書等が入っていた。奥の仏間や二階にも、書籍があったので、勿論、時間さえあれば、ネットオークション等で、欲しい人に譲る事も出来たのだが、ゴミにするのは忍びないので、ブックオフに電話して引き取りに来て貰った。若い頼りなげな女の子がひとりやって来て、頑張って査定をしていたのだが、100冊で1215円であった?一万じゃあないよ?千二百だよ?
吉永小百合の超デカイ重たい写真集1冊だけですら、単品ならば、それぐらいの値段はするのじゃあない?これじゃあ、全ての貴重書が、1冊100円くらいの査定だよね? 東京で、時々持って行くブックオフでも、コミックマンガを持って行っても300円くらいになる事もあるのだがね?
でも、棄てるよりはましなのかな?
時間があったら、ネットオークションがよかったのだけど、それは無理な話しなのでね?棄ててしまうよりも、精神的に楽という意味だよな?
教育の話し
出る釘は打たれる!
しかし、ドングリの中で、より良い生活を望むのは、もっと難しいという事を、人は知ろうとはしない?
一芸を求めて、ひた向きに人生を歩む人達は、素晴らしい?
若者がひた向きに生きている姿を見る事は、感動すら覚える。
しかし、きょうびの横並びの教育社会では、人よりも秀でる事は、極力否められる事になる。
私は、ひた向きに人生を歩んでいる若者を見る事は、素晴らしい事に思えるのだが、きょうびの親達は、それを極力否定する。
その理由を尋ねると、子供に苦労をさせたくないから…という事である。
しかし、それは本当だろうか?
競争社会に於いては、人と同じ事が…、人と同じようにする事が…、如何に、より多くの、激しい労力を必用とするのかを、理解出来ている人は少ない。
それは極めて簡単な理屈なのだが?
つまり、競争相手が5人と100人では、どちらが大変なのか?という理屈である。
最初から、人よりも秀でた能力を身に付けながら、それを否定して、一般と同じ土俵で、人と同じか、それよりも劣っている能力で、非常に苦労しながら、無為な努力を積み上げる事は、私には理解出来ない?
しかも、人と同じ努力をするという事は、その日常の生活も、今時の若者達とシンクロした生活をするという事なのだが、その今時の若者達の日常を、親達は垣間見る事はあるのだろうか?
音楽を目指していた生徒が、一般の高校、大学を目指すようになった時、その生徒の日常の興味を知って衝撃を受けた事がある。男の子は、その生徒の目標が変わっても、その生き方が変わる事はない。しかし、女の子の場合には、その生き方そのものが変わってしまうのだよ?
これは怖い?
一芸に真摯であり続ける事は、そんなに難しい事ではない?
ピアノでショパンの演奏で世界一の称号を受けるのは、よっぽどの事である。
しかし、誰も挑戦していない、ペリオード奏法の分野で世界の最先端を走るのは簡単である。まだ未知の分野であり、真面目で真摯な姿勢で探求心を持ち続ければ良いだけだからだ。
教室の保護者の方が、斎場で仕事をしていた。超エリートの大学を卒業して、超一流の会社に就職した若い青年達の自殺が、あまりにも多くて、千葉市という狭い地域でさえも、何人もの若者の葬儀に立ち合わなければならず、同世代の男の子を持つ母親として、少なからずショックを受けていたのだが、本当は、話題にすら上らない、その何倍もの引きこもりやニートの若者がその下にいるのだよ?
人と同じ事をする事は、一番楽で、安全な事のように思っている人が多いのだが、実際には、一番、競争が激しいのだという事に、気付いている人は少ないのだよな?
私が全音で楽譜を出版する時に、編集長から言われた事は、「一番売れているgenreの本を作ると確実に売れる!」と言う事でした。
しかし、それはチョッと違うんだよな!
皆が同じように真似て本を書いても、その中では独自性は生まれないので、結局は売れなくなってしまうのだよ。
世界のコンクールで一番になったからといっても、ChopinやLisztを引っさげていては、Pianoの神様の演奏に敵う分けはないのだよ。
つまり、2流、3流のChopin弾きであって、一流には成れないのだわさ!!
という事で、私は決して、私が教えている生徒達に、音楽大学に進学する事を薦めている分けではないのだよ?
何故ならば、私がいつも言っている事なのだが、音楽大学の先生達ですら、音楽が職業である事を、理解している人は少ない。ましてや、音楽を学んでいる音大生は然りである。
それでも音楽大学が成り立っていられるのは、音楽大学の学生が、皆、生活に困る事のない生活のために音楽をする必要のない良家のお嬢様達だからである。
しかし、それは日本の音楽界だけの傾向であり、ドイツのように、音楽大学の学生の大半が、男性で、数少ない女性達も音楽を勉強するのに、苦学をして勉強している人達が多い所では、「音楽は芸術であると同時に、職業でもある」と理解している人達が殆どである。
言うまでもないが、勿論、指導する側の教授達も然りである。
日本での職業としての音楽は、オケマンと、学校の先生、主婦のバイトとして、音楽教室の先生くらいなのかな?
演奏会を開いていても、それにタツキがかかっている分けではないのだよ?
自分の音楽の向上のための演奏であって、クライアントのための演奏ではないのだよなぁ?
話しが、ついつい愚痴になってしまったのだが、私にとって、一芸に秀でる事、ひた向きに何かを追及する事は、別に音楽である必用はないのだ。
芦塚音楽教室を開設した時の音楽教室である理由は、いつも言っているように、私のメトードを、勉強しても良いと言ってくれた人が、私が音楽大学に入れた人で、音楽家だったからに過ぎないからである。
実は、この愚痴の文章を書く前に、またまた、音楽とは無関係なのだが、愚痴を延々との書いていた文章がなくなってしまいました?
夏休みの子供達の日常の行動についての恐ろしい一文で、けっこう、頑張って書いた文章です。
それがごっそりとなくなってしまっていたのだが、その理由が分からない?
スマホは、やっぱり、私には、相性が悪いようです。
本当ならば、親が知っておかなければならない、自分の娘達の行動のお話だったのですが、ぶっ飛んだ文章を、これからもう一度書く元気は、もう持ち合わせていないので…ね?
それに、子供と言うのは、親や周りの親族達が望んだようにしか育たないのだよ。私が一人で、馬鹿みたいに幾ら指導しても、人の上に立てる人間に成れる分けはないのですよ。
私が子供達の教育に人生を捧げようと言う妄想に取り憑かれたのは、子供達の真摯なひたむきな姿を見て、その指導者達の技術の水準の低さに驚いたからであって、その若者が、自分の信じる道をひた向きに歩むのならば、アスリートであろうと、絵画、文学であろうと、技術者であろうと、私としては、何ら構わないのだよ?
でも、良いとこ取りの野狐の芸術家を望むのならば、私が助けられる所はないよな??
今は、「私は芦塚先生の弟子です。」といってくれる生徒が、たった一人でも良いから、欲しい。・・・それだけです。


紀行文
ふるさとへの多分最後の旅
その11(8月11日今年初めての山の日だそうな?)
今日のメインイベントは、帰京のための車への積み込み
な、な、なんと、後一日を残して、シャワレットが壊れた?
まぁ、明日までなのだから、まあ、いいか?
冷蔵庫も、辛うじて、なんとか頑張ったようだ?
二階の寝室のクーラーは、4、50年は経っていると思えるのに、ギンギンに冷えるし、一階の食堂のクーラーは、お袋がまだこの家にいる時に、私が買ったものなので、そんなに古い物ではないので、問題はなかった?昔のクーラーは、壊れないのだよな??新しい順番に壊れて行くのはどうして??
超暑い長崎で、それだけは助かっているのだよ。
心残りの家具が二つ、なんとか集荷に間に合えば、送ろうと思ったのだが、やはり、クロネコさんの集荷には、時間的に無理なようだった。結構、立派な食器棚だから、昔々、江古田に住み始めた頃に仮に買った安物の食器棚と長崎の食器棚を交換したかったのだがネ?
もう一つは、検見川教室の入り口のチェストを、パインの格好の良いチェストと交換したかったのだよ?
今日もクロネコは集荷に来るのだが、段ボールと家具では、部署や車が違うらしい。急いで電話をしてみたのだが、出発の次の日の集荷になってしまうらしい。残念無念?
斉藤先生は、もっと前に決断して、前回の集荷の時に集荷して貰えれば良かったのに・・と言っていたのだが、私は、「オケ教室の入り口のチェストの横幅の寸法だけを図って・・」とは、何度も言っていたのに、結局、誰も図ってくれなかったし、食器棚もハイツの古い食器棚と交換すると何度も言っていたのに、本気にして貰えなかった・・私としては、決断はしていたつもりになっていたのだがね。優柔不断ではなく、私は、棚が着いてから、古い食器棚から陶器を出して、新しい食器棚と入れ替えて、陶器を戻すという事を、自分一人でやるという自信がなくて、ダンボール系の荷物だと、ハイツには所詮誰も来ないので、ダンボールを出しっ放しにしておいて、体調の良い時に、暇な時に、その都度少しずつやれば良いのだが、食器棚ならば、そうは行かないので、悩んでいたのだよ。
そこいらの事が中々理解して貰えないのだよな。
明日は長崎の家からの出発のtimelimitが11時半くらいなのだな。長崎から、オーシャンフェリーの新門司まで、高速で3時間半の行程なのだが、これは計算値なので、実際には4時間以上は見なければなるまい。
後、ひと苦労だなや?
頑張れ?? 頑張れ! 団塊の世代よ?
後、一日?


紀行文
ふるさとへの多分最後の旅
その12(8月12日)
その前日の夜
「連日の荷物の整理という単純作業で」
すっかりバテてしまって、二階の寝室で寝込んでしまっていて、夜の10時過ぎに目が覚めて、日にちへのメリハリが無くなってしまい、今は何日かが全く分からなくなってしまった?
スマホで、日にちの確認をしたのだが、感情的には「明日朝、長崎を出発する」…と言う日にちへの切迫感が無くなってしまっていて、タイムリミットが理解出来なくなってしまっていた?
本来は13日に出発する予定だったのだから、フェリーで一日短くなって閉まっているのだが、その日にちの修正が出来ないのだよ!!思い変える事が出来ない‥・というのは、アルツハイマー症の兆候かいな?
東京へ持って帰る分の車への「積み込みの時間」を最短にするために、今、「明日、車に積み込む物」を分類しなければならないのだが、疲れが取れなくって、何にも出来ない…というか、する気にならない?……というか、椅子に座っている事さえも、体の負担になって疲れ切ってしまっているのだよ?(後日、テレビを見ていて、驚いたね??8月は3日から16日迄の猛暑日で、熱帯夜にならなかったのは11日だけだそうですよ。老人には生きて行く事さえ辛い毎日かもね‥・?
「体調不良の対処を・・」
勿論、7月の合宿の前の早い時期に、病院の先生には、この慢性的な疲労の相談をしているのだよ?
しかし、今の所、病院の先生からは、「安静にして」…とか、「体調管理に気をつけて」…とかしか言われない。
若い先生に取っては、老人が疲れ切っているのは、あたり前の事だからね。
しかし、7月の最初の頃からもう既に、バテてしまって、「多分最後の整理」‥・というのに、全く、仕事にならないのだよなぁ?
荷物は、可能な限り、クロネコで送ってしまったので、後は車に積み込めるだけ積み込むのだが、トイレットペーパー一個にまで、何とか救ってやりたい気になって、「こんな物まで…」と、情緒的感情的になってしまっている! それでも、後で、思い残しをするよりは「こんな物まで・・」という方がマシと思っての話なのだがね?
「パソコンの仕事が出来ないので・・」
Wi-Fiを持って来なかったので、パソコン絡みの仕事が何も出来なかったのが、心残りな帰省であった。
普段は、体調不良で動けない時には、パソコンの前に座って、パソコン関係の仕事をしている。
だから、いつもの様にパソコンの作業をすれば、「何も出来なかった。」と、自虐する事は無くなったと思うのだが・・
・・という事で、長崎の街に出たついでに、「即日、買ったその日から使用出来るWi-Fiの入ったパソコンでも買おうかな?」とも思って、聞いて見たのだが、お店の人に、「そんな機種はありません」と、事もナゲに言われてしまった・・・!!
等々、なんだかんだとウダウダしている間に、光陰は矢の如し・・で、とうとう12日になってしまった?
勿論、スマホをWi-Fiの代わりに使用する方法も考えたのだが、一つはスマホの契約が一括の契約ではないので、通信料が別途掛かって、その金額が膨大になるのだよ。Wi-Fiの場合の通信料は無制限なので、問題はないのだが‥・?
もう一つは、長崎の家では、普段仕事をしている場所、食堂なのだが、そこではWi-Fiが入らないのだな??
だから、クーラーのない玄関の接客スペースで仕事をしなければならないので、これがまた、辛いのだよ。
しかし、多分、これが、ふるさとへの最後の旅なのだよな? 心残りが色々と溜まるな〜ぁ??
という事でタイムリミットが過ぎて・・
「長崎の家を出発しての道中・・」
時間通りに長崎の家を出発して、途中で諫早に寄って鰻を食べて、本来的には、おみやげを買いに行く時間が全く無かったので、長崎の街でおみやげを買いに行く時間が全く無かったので、帰りがけのついでに、おみやげを探そうと、諫早の町で面白そうなお店を見つけて入ったのは良いのだが、身障者のお店とかで、殆ど趣味的なお店で、親切でお茶は出してくれるのは良いのだが、包装するのにえらい時間が掛かるし・・で、とんだ道草をしてしまった。しかし、面白い手作業の人形や、お地蔵さんのタペストリー等を色々と買ってそれなりには面白かった。雲仙市にある茜工房の出店のお店らしい。
「サービスエリアの食堂で」
という事で、SAには一切寄らないで、一気に車を走らせて、フェリーでは、夕飯が食べれないので、(コインの食料しかないので)、ちゃんとしたレストランで食べようと、九州道では一番大きな、古賀のサービスエリアに入ったら、大変な人だかりで、おみやげを買うにも人が並んでいてとても無理な状況だった。お店の案内に、ペッパー君が何人もいて、目があうと、覗きこまれてドギマギしてしまった。「なんか話ないの??」ってな感じかな??お客さんが一人もいない、一番空いていたちゃんぽん屋さんがあったので、一番シンプルなちゃんぽんを食べようと頼んだら、出来上がるまでにえらい待たされてしまうし、(この混み合いの中で、一人のお客さんもいないので、当然、混んでいるからではなく、単に手順が悪いからで、当然、美味しくもなく‥・、・・だから空いていたのか??なる程‥・!!)・・てな具合で、あちらこちらで手間取ってしまい、フェリーの埠頭には結構、ギリギリに着いてしまったのだが、時間15分ぐらい前から、フェリーに乗る事が出来た?
「必死にフェリーに間に合うように走って来たのがtraumaになって・・」
私の記憶の中では、フェリーの待ち合わせ時間に、1,2分差で間に合わなくなって、乗れなくなって、他の車がフェリーに乗るために走っているのに、なぜ私だけ乗せないのか?と、フェリーの人と喧嘩をしている夢(?)を見た。結果はゴリ押しで乗ってしまうのだが、それが結構traumaになった・・という夢?・・記憶??‥・妄想???・・、フェリーでは、どちらの記憶が正常な記憶か、分からなくなってしまっていたから不思議だ??
フェリーは今年からリニューアルして、けっこう綺麗になっただけではなく、とても広くなって、快適になっていた?



紀行文
ふるさとへの多分最後の旅
その13(8月13日)
「フェリーは外洋では、携帯の電波が届かないので・・」
この章は、フェリーが外洋上を航行するので、携帯のFacebookのおしゃべり(書き込み)は、リアルタイムのuploadは出来ません?
外海上では携帯の電波が届かないので?
それは今までの経験で、分かっている事なので、取り敢えずは、スマホ上で書き溜めておいて、電波が通じたら、uploadしようかな?と思ったのですが、保存をクリックした途端に、それまで書き溜めた文章がぶっ飛んで、しまいました。
「電波が通じない状況では、Facebookへの保存も出来ない」という事は知らなかったのよね?
気長に時間潰しに書いていた文章が、全てぶっ飛んでしまったのだよ?超、shock!!
海上では、電波が届かないという事は、つまりWi-Fiを持って来ていたとしても、パソコンの仕事は出来ないし、今回は本屋に本を買いに行く事すら出来無かったので、読む本もないし(フェリーでは食堂も売店もないのですよ。)、唯一の娯楽であるはずのテレビは、どのチャンネルもオリンピックで同じメダルを取った画像を繰り返し放映するだけで、おしゃべりをしているコメンテーターが違うだけなのだが、そのコメンテーターすらどのchannelのコメンテーターも同じ事を繰り返している。まるで、右倣えの日本の教育界の縮図のように見えて滑稽でした。
後、あるchannelはshopchannelだけなのだよな〜ぁ??
どうして日本の放送はこう同じ番組をやるのか??と聞いた事があります。今は番組を放送局が作るのは、大変時間と手間とお金が掛かるので、配信会社から買うのだそうですよ。だから、皆、同じ番組(映像)を使用して、ナレーションも同じになるのだそうです。
「歳を取って、船酔いをするようになってしまった!!」
今回は、SOLD OUTのフェリーの切符が、直前にかけ直した電話で、キャンセルが出ていて偶然にも奇跡的にチケットを取る事が出来たので、「楽で良かった!」と言って来れる人が多かったのだが、私がフェリーを嫌いで、フェリー使わない事が多いのは、フェリーでの帰京が結構体力的に、大変なのだからですよ!!
釣りをしたりするので、船酔いには結構強いのですが、流石に外洋の土用波や台風性の浪は、遠ければ遠い程、浪が大きくなって悪酔いをするのですよ。
とは言っても、私も昔から、船が苦手であった分けではないのです。
元来、私の家系は、真面目に調べて見ると、(そういう研究者の人達が結構いるので、homepage等で系譜を遡る事が出来るのです。)祖先は、どうやら倭寇の家系らしく、私に限らず、親族一同大変船には強い。
台風の最中にフェリーを出すという事は、今では有り得ない話かも知れませんが、私が未だ中学2年生の時には、中学校の修学旅行に出掛けた時も、バスの旅行で、台風の真っ只中をフェリーに乗りました。台風の直撃の真っ最中で、フェリーが大揺れに揺れて、先生も生徒も、恐怖と具合を悪くしている中で、特攻隊の生き残りの先生と私と友人の3人だけが、デッキのベンチに座って、浪風を受けながら、喜んで台風を満喫していた。
特攻の先生は、「これがピッチングで、これがヨーイングだよ!」と、船の揺れ方を指導してくれていた。
昔の話ついでに、私が留学から帰国して、大学で講師をやっていた頃、同じ東京に住んでいた従兄と、台風の真っ最中に大島に遊びに行くという事で、定期航路の船に乗っったのは良いのだが、台風の直撃の大波で、お客さんの若者達皆さんが、40畳もある座敷の端から端まで、放り投げられ、転がされて、「きゃあ〜!きゃあ〜!」と喚いている時に(大部屋だから、捕まるもの(柱等も)もないのだよ!)、私と従兄はケロとして、甲板で、大波を見ながら、Beerを飲んでいた。
その揺れは、ディズニーランドのアトラクションの比では無かったのだよ!! 
その時は、トイレの便器にしがみついている若者もいたのだが、トイレが逆流して、大変な有様だったよ!! それが大島に着いた途端に、湖のように静かになるのだから、海は分からん!!
ところがやはり、高齢者になっ来たこの2,3回の船旅は、大きなフェリーでも、近場の台風の揺れではなく、遠くの台風の影響を受けた浪でも、船の揺れが、体に辛くなって来た。
斉藤先生は倭寇の出身ではないので、私以上に船の揺れは辛いようで、勿論、これぐらいの揺れになると、船酔いの薬は効きはしないのだよ。
今回の船は、今までのフェリーよりもrenewalされた大型の、とても綺麗な船で、船室も4人部屋を2人で借りていたので、非常に広くて旅館の一室のように楽だったのだが、流石に外洋に出た辺りからは、台風の余波と思われる大波に二度も出会ってしまって、大変な思いをした。
斉藤先生は一回目の揺れから、薬を飲んで寝ていたのだが、私も、流石に今回は辛かったので、2回目は、諦めて、私も薬を飲んだのだが、全く効き目は無かった。
冗談じゃなく、死ぬか??(心臓が止まるか?・・)と思ったのだが、やはり、高齢者には、もう、船旅はキツイのだよな〜ぁ。幾ら海賊の子孫でも、歳には勝てんわさ!!
「東京帰京のrotation」
何度も書いているように、今回は長崎に着く前から、体調不良で、それに腰痛も再発してしまって、運転中からなのだが、尾骨まで痛くなって、座ることすらままならなくなってしまって、長崎にやっとこさっとこ辿り着いたのに、長崎の異常な暑さと、尾骨の痛みで、部屋の整理、荷物の整理をする事は何一つ出来なかった。という事で、斎藤先生1人が、こまねずみのように朝から晩まで働いて、荷物をまとめていたのだが、一人で作業をするのと、二人で作業をする事は、根本的に速さが違うので、 12日に出発をするのを、13日に出発する事にしてのrotationを組んだ。
しかし、フェリーの切符が取れた事で、作業の幾つかを見切りをしなければならなくなって、大きな心残りが出来てしまった。
いつもの里帰りでは、教室が17日には始まるので、斉藤先生が中一日だけは休憩したいという希望で、遅くとも、14日の朝早くには、事務所に到着するようなローテーションで帰京しているのだが、今回は、多分最後の帰省と言う事になると思われるので、無理をして、最初は、15日の朝早くに到着するような予定を組んで、斉藤先生にも了解して貰っていたのですが、ナ、ナ、ナ、ナント、フェリーは、日曜日は出港しないという事で、出港は予定よりも一日早く、12日の夕方の出港になりました。
だけど、それでも奇跡的に取れたのだから・・ね??
だから、東京の有明埠頭には、予定よりも1日早い、14日の午前中の早い時間に着く事になりました。
日曜日の次の日の16日出発では、lessonの開始に間に合わないからなのですよ。
東京の埠頭には朝の6時には着きましたが、船を出てからはすぐに高速なので、30分もしないで、事務所にたどり着く事が出来ます。
それから、ゆっくりと、改めて、寝るのかな?
「以前も書いた同じ文章なのですが、慌てて書いているので・・」
今日(13日の)、朝早くに、洋上で新しく大きくなったフェリーについての感想を書いたのですが、保存をクリックしたら、保存されないで、そのまま消えてしまいました。
Facebookは、ネットに繋がっていないと、保存も出来ないようですね?
この文章は、途中停泊の徳島の埠頭に接岸中に打っています。
もうすぐに出港なので、中途半端なのですが、急いで保存をする事にします。
「このフェリーの問題点は・・」
この大きなフェリーは中々気に入ったのですが、この船で1つだけ欠点を挙げるとすると、トイレに行くのに大きなロビーを通らなければならないので、ちゃんと服を着てトイレに行かなければいけない・・という事です。
老人になったからという分けではなく、疲れている時には、トイレに行く回数が1時間起きに1回か、疲れがもっと酷くなると、それよりも短いインターバルでトイレに通ってしまいます。
その度に服を着て、ズボンを履いて、漏れそうになるのを堪えながら必死にトイレに行くのは、結構大変な思いでした。
腰痛が酷いのでズボンを履くのも結構必死なのですよ??
ああ、それに台風性の揺れで、船が大きく揺れるので、真っ直ぐに立っているのは、中々、難しいのですよ。私のような老人でなくても、子供達でも、ふらふらとしてしまうのですよ。ハイ!


紀行文
ふるさとへの多分、最後の旅
その14(8月14日)
「フェリーから事務所到着まで」
長崎から高速で、新門司港に着いて、フェリーに乗って、瀬戸内海を航行して、徳島港に停泊して、出航したら、いよいよ外洋(外海)です。
今回のフェリーの旅は、新門司港を出航する時には、素晴らしい天気に恵まれていたのですが、しかし、毎年この時期は台風の影響で、外洋では、大波が酷くて、大きなフェリーであったとしても、思いの外揺れが酷いのです。
という事で、今回も(ご多分に漏れず!)外洋に出た途端に、斉藤先生は、船ではすっかり寝込んでしまいましたが、本来ならば、船には強いはずの私も、だんだん、歳と共に船に弱くなってしまい、人並みに気分が悪くなってしまって、結構、苦しくって、眠る事すら出来ず、今回もまた、大変な思いをしていましたが、やっと、東京湾の中に船が入った頃から、揺れがすっかり落ち着きました。
・・と同時に、それまで殆ど丸一日繋がらなかった携帯の電波も復旧しました。
東京湾に入ったとしても、直ぐに埠頭に辿り着く分けではありません。湾の外口から埠頭まで、延々と丸々小一時間程は航行していました。(考えて見れば、それでも海なので、直線なので、早いのだよね??車ならとても1時間では着かない距離だよな〜あ!!)
しかし、一旦、埠頭に着いてから、東京の事務所までは、車で高速のC3で約25分しか掛かりません。
朝の7時の渋滞の前には、もう既に、事務所に到着しました。
それから、大急ぎでなま物だけを事務所の冷蔵庫の中にしまって、後の腐らない物や大荷物は、夕方一休みしてから改めて、作業をする事にしました。
「子供の悪戯で、ハイツの郵便受けが開かなくなって・・」
椎名町の駐車場は、塀の外なので、長期間、バイクを外に置いたままにして置くと、悪戯されてしまうので、今回は、自宅のハイツの駐輪場(ドア付きの専用の駐輪場です。)に置いて行ったので、朝の8時15分頃には(約、小一時間後には・・)急いで寝ようと思って、電車に乗って、ハイツに戻って、ハイツの玄関に入って、留守中の郵便物を取ろうと郵便受けを開けようとしたら、ダイヤルキーが回されていて、扉を開ける事が出来なくなっていました。
以前も、子供に悪戯されていて(キーを動かされていて・・)、暗証番号をちゃんと合わせても、(その番号を何度も、合わせ直しても)、ロックが解除出来なくって、旅の疲労と暑さで、10分ぐらい汗だくになりながら、keyを回して、やっと、何回目かでロックが解除されました。
番号が間違っている分けではなく、単に鍵の接合不良なのですが、何度合わせても、開かない時には開かなくって、困ってしまいます。
前回も悪戯されていた時には、私は諦めてしまったのですが、管理人が後で、開けてくれたので、助かりました。
私の場合には、いちいちロックを解除するのが、面倒くさいので、普段は鍵をロックはしていないで、数字0の状態にしています。
だから、誰かが、数字キーの文字盤を回さない限り、鍵がロックされる事はないのです。
子供の悪戯というのは、管理人が悪戯する子供を特定しているのらしいのですが、管理人は親との軋轢を恐れてどうも注意出来ないようです。
怖い人なのかな??
「折角、部屋に着いたのに、眠れないのだよな〜ぁ??困った!!」
手に持てる荷物だけを手持ちでハイツに持って来たので、ハイツで冷蔵庫に保存するなま物だけを冷蔵庫に入れたら、大急ぎで、取り敢えず、夕方、改めて車を出しに椎名町に行く迄、お休みをする予定です。
すぐにでも、寝たいのだけど、雑用が多くて・・・??
取り敢えず、大急ぎで済ませて、・・と思ったのだけど、眠れないのだよな・・これが・・??
ベッドに横になっては見たのだけど、眠れないままに、起き出して、荷物の整理やパソコンのcheckを始めて、夕方になったら、そのまま長崎から持って来た荷物を、それぞれの取り敢えず置いて置く部屋への移動のために、車をもう一度、車庫から出して、搬出の作業を始めました。
疲れ切ってはいるのだけど、眠れないので、仕方が無い、・・困ったものです。
それはそうと、寝付きやすくなる薬(睡眠導入剤)ではない・・、良質の睡眠を取れるというmittelの事を、フェリーのテレビで、しょっちゅう宣伝していたので、それでも買って見るか?


紀行文
ふるさとへの多分、最後の旅
その15(8月15日16日)後書き
この紀行文は、chapter14の東京着で、2週間の行程という事で、旅の区切りも良いし、この紀行文は終わりにしようと思っていたのですが、何と、荷物の後始末の段階で、斉藤先生も疲れで何も食べれなくなってしまい、私は左足首と右の膝が痛くなって、立ち上がる事が出来なくなって、ハイツの荷物の後片付けが出来なくなってしまい、大きな雑多な後片付けは、14の朝に着いて、15日には終わっているはずなのが、ダラダラと、後片付けが継続してしまい、終わりが見えなくなってしまいました。
東京に辿り着いた14日の朝は、電車で手持ちで持って帰れるだけのナマ物だけを持ち帰り、その日の夜に改めて車を出して、大荷物をハイツに持って行きました。
細々した仕分けの必用な雑多な荷物は、斉藤先生に先に仕分けして貰って、15日にバイクでハイツまで持って帰る事になっていたのですが、その14日の深夜、ベッドに寝ている時から、左踝が痛くなって、ついでに右膝関節も痛くなって、とうとう、ベッドからトイレまでも歩けなくなってしまいました。
しかし、55歳を過ぎた辺りから、時折、腰痛が酷くなって、トイレ迄も、歩けなくなってしまう事がよくあったので、(その時は、今回の踝とは違って腰なのですが・・・)ハイツには、トイレまで歩くために、杖が常備されています。
だから、その杖をベッドサイドに持って来て、ベッドから、杖を使って壁伝いに掴まりながら、転ばないように注意しながら、トイレまで歩いています。(まるで、老人だよな??)
杖を準備していたおかげで、今回も、部屋の中を歩くだけなら、何とか踝の痛みにも対応する事が出来ました。
という事で、最初の14日に、電車でハイツに持ち帰ったナマ物を整理するだけで、15日は終わってしまいました。
14日の夜に、車で大きな荷物は移動してしまったので、後は、16日に、殆どの小物の細々とした荷物の移動はバイクで大きなリュックに入れて、持ち帰りました。
しかし、そのまま玄関に起きっパ・・では、玄関の出入りすら出来なくなってしまうので、少しずつ、足首に相談しながら、出来る範囲から、部屋の片付けを始めています。
という事で、この2日間、買い物にも外には出ていないし、事務所から何か食べるものを持って帰って来た分けでもないので、ハイツの冷蔵庫には、食べ物が全く無くなってしまったし、直ぐそばのセブンにすら、買いに行く元気もないので、取り敢えずの、非常食で間に合わせていたら、折角、長崎の旅の病気で、5`近く痩せたのに、2日で2`もリバウンドしてしまいました。食わなきゃ、痩せる・・と、昔々の病院の先生は言っていたのだけど、どうすりゃ良いのかな??
その後も食事が出来ないままに、4日目になってしまいましたが、非常食のインスタントを1日一回食べるだけなのに、痩せないのよね??
逆にリバウンドしている・・・不思議だ!!
非常食のインスタントって、そんなにカロリーがあるの??









                    
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