娘へ
いつまでも
あると思うな
歳と金
親へ
いつまでも
あると思うな
土地と金
勿論、ご存知のように、原文は
いつまでも
あるとおもうな
親と金
その後の句が
さりとても
墓に布団は
着せられず
と来る。
私がまだ小さかった子供の頃(昭和20年代の前半)は、まだ疎開先の本家の祖母の家(長崎県の諫早市にある)に住んでいた。ラジオから流れてくる古典落語が結構好きであった。(と言うか、それ位しか番組は無かったのだ。)昼の時間から夕方の時間にかけては尋ね人と言う番組で一日の放送はすべてであったし、また皆「第一連隊大連方面隊・・・・」などと、情報が流れてくると皆、少しでも肉親に関係のある情報は無いのかと、結構耳をそばだてて聴き入っていた。大人にとっては大変重要な情報源であったとしても、子供にとってはお経のような、抑揚の無い単調なつまらない番組だったので、古典落語ともなると、今で言うすばらしいエンターテイメントの番組であった。
もし、若いあなた達がマンガ好きであるとして、昭和20年代という時代を思い浮かべると、西岸良平のマンガ「三丁目の夕日」の夕日ヶ丘の町のイメージを持たれるかもしれない。でも、そのイメージは東京や大阪のような大都会のイメージなのです。本当の当時の地方の村や町は、100年前の生活とも何一つ変らない生活だったのです。地方の大都市である長崎市は(その当時でも40万人ぐらいの人口はあった。)それでも明治時代から確実に昭和の文明開化になりつつあった。(丸山のあたりではまだ人力車が普通に走っていたし、ちんちん電車はポールが電線から良く外れて道路で立ち往生していた。
しかし、その衛星都市である諫早市とか大村市、島原の町など(人口2万に満たない町)は、そのどこが昭和20年代であるかと首を傾げたくなるように、昭和という時代を探すほうがまだ難しく江戸時代から明治、大正と何一つ変らぬままの生活であった。
その後、地方都市が一気に文明開化していくのは、やはりラジオやテレビなどのマスメディアやどんどん早くなっていく交通機関のおかげなのかもしれない。同様に、当時はまだ週刊誌は無かったけれど、マンガや各種雑誌などの出版物も、確実に都会の情報を送り始めていた。