論文のネタ集は最初、本当にネタ集として書かれました。

つまり、反故のmemo書きとして、書かれていて、折に触れて論文として推敲していったのですが、日常の生活に追い詰められて、とても、とても、そう言った自分を見直すだけのゆとりの時間を見いだす事が出来なくなったので、そのまま当世風にブログとして、upする事にしました。

・・という事で、この論文は教育関係の論文を集めたもので、推敲する段階で日付を消去したので、いつの頃から書き始めたものか、今になっては分かりません。
書いていた当時は、ネタ集のままに、自分のパソコンに送ったメールが仕分けされて残っていたので、当然書いた日付やその前後の状況も分かっていたのですが、当時、愛用していたDell XPのパソコンが寿命になって、ハードディスクのトラブルで、3度も4度もリカバリーをしなければならなくなってしまって、その結果、back・upのdataも、失われてしまいました。

他の情報は外付けのハードディスクドライブで通常仕事をしているのですが、outlookだけはパソコン本体にdataを保存していたからです。

・・・という事で、日付が書かれていてブログ風のネタ集になっていて、日付がはっきりしているのは、
2009年の6月の13日からになります。ちなみにこのネタ集の最後の日付は2011年の7月28日になっていますが、2011年の5月からは私のお袋の認知症、初めての八千代のコンサート、兄貴の入院等々非常に肉体的にも精神的にも追い込まれていた時です。という事で、論文のネタ集はしばらく書かれる事はなく、お休みになっています。


論文のネタ集

(教育について)

いじめ

いじめは複雑な高度な現代社会になって起こったものではない!

太古の時代、あるいは、チンパンジー、などの霊長類の時代から既に歴然としてあるのだ。

 

音楽脳

数学や物理、文学等も脳の一部を使用する。しかし、楽器を演奏している時は、全ての脳が活性化する。

どんな勉強よりも、楽器を弾く事の方が多くの脳を使っている・・・と言うよりも、使っていない場所を探す方が難しい!

 

無意識の意識

うっそ~?!

無意識に口をついて出る言葉は、その人の潜在意識を表すことが多い。

事の軽重を問わず、「うっそう~!?」と無意識に口に出てしまう言葉は、相手の主張や話ている事を全面否定しているのだ。

「うっそう~!?」という言葉のもっとも重要な問題は、その言葉が「相手を否定している言葉である」 と言う意識が、言っている側に無いと言う事である。(もっとも、それを潜在意識というのだが。)

それは、とりもなおさず、自分が相手を「否定しているわけではないのだ」が、まず、自分を取り巻く全てを否定的に見る、という立場を無意識に表しているのだ。

それは自己防衛本能のようなものでもある。

 

人生を前向きに生きる事と、後ろ向きに生きる事はどちらが良いのか?

勿論、人々は、口では「人生は前向きに生きるに限るんだよ。」という。

しかしながら、実際には、大勢の人達の意識は、まず自分の周りを否定する事から始まる。

それは、人は後ろ向きに生きた方が楽だからである。

否定は努力を必要としないからである。

 

人は自己防御の本能で、自分を守るために周りを否定する。

しかし、それが何時かは、回りまわって、自分を孤立させる事にるのだ、と言う事を気付こうとしない。

 

中国の諺に「朱に交われば赤くなる」と言う諺がある。

人の悪口を言う仲間の所に居ればいつかは自分も悪く言われる。

それは単に人の影響を無意識に受けていくという意味だけではない。寧ろ、積極的に人間は自分と同じレベルの人と交わろうとする。同じ水を飲み、同じ空気を吸う、その方が楽だからである。

しかし、それは他の人から見る自分のレベルに他ならない。

 

前向きに考えるという事

「成績を上げるという事は、将来、お金を稼いで、豊かな生活をする」と言う目的のため、と言った人がいた。

「お金を貯める」 と言う事は、物が豊かな生活であって、心が豊かな生活ではない。

練馬区の大泉でこんもりとした森のような広大な土地の中にある乞食小屋のようなぼろぼろの家の中で、継ぎはぎだらけのぼろぼろの着物を着た老婆が孤独死をしていた。一月近く経って近所の人達が老婆を見ないので、不思議に思って、警察に連絡したのだそうな。警察が調べたら、寝ていたボロボロの布団の下に万円札の束が何億円とぎっしりと敷き詰められていたそうである。

お金に依存し、お金を失う事に恐怖を感じてしまう。周りの人は勿論の事、銀行さえ信じられない、極限の不自由な生活さえも辞さない、お金依存の孤独死である。

お金は使い方を間違えると、人を幸せにはしない。孤独死をしたその老婆も、老後の金を、一円の金も出し惜しむように、ガスや電気は止まったままで、食事も近所のコンビニやレストランの残りを貰って食べていたそうである。誰もその老婆が実は大金持ちである事は気がついていなかったと言う。

私にお金を借りて逃げ回っている、昔の友が複数いる。

普段から、私よりも数倍金銭的に豊かな生活をしているのに、である。

20年、30年の付き合いを、金の貸し借りで平気で裏切る、という信じられない輩だ。

子供の父親であるのにかかわらず・・である。子供達の前では、良い父親を演じながら、私に対しては、「返す!返す!」と言いながら、もう10年以上も逃げ回っている。

そういった彼らは幸せなのだろうか?そういった彼らを誰が信じてくれるのだろうか?

⇒お金は、ただの道具に過ぎず、幸せの目的にはなりえない。

そこを穿き違えている。自分は人並みに豊かな生活をしているのに、借りたお金を返そうとはしない。そこに自分の事しか考えない、自分本位の人生がある。

 

私も歳を取ったが、私の周りも当然歳をとった、・・・と言う事で、話題が老後の生活のための貯えの話になることが多い。

人は老後何年生きたとして、幾らのお金が必要か?と言う事に思いを巡らしている。

しかし、その老後の話が、老後に自分を取り巻く人の話になる事は殆どない。

老人問題で今、一番テレビや政治の問題になっているのが、老人の孤独死であるのに、・・・である。

当然、私の友人には、自分の孤独死を恐れ、そのために私に対して、家族の大切さや肉親の必要性を主張してきた友人達も多い。

しかし、現実的にこうやって、老後を迎えてみると、「家族の絆」を主張してきた友人が、定年を迎えた途端に、妻とも離婚して、子供達も結婚をして自分達の家庭を作ってしまって、すっかり友人とは疎遠になってしまっている。

その中の最も酷いケースでは、友人は「家族の(子供達の)住所すら知らない。」 という。

一生懸命子育てをやってきたつもりなのに、「子供達に裏切られた」「見捨てられた。」 という感覚なのだろう。それが、子供達の住所を知ろうとしない理由なのだろう。

私は自分の弟子達には、(彼女達の子供が自分に依存し、頼ってくる事があったとしても)、「自分の方からは家族に依存してはいけない。」 と言い続けている。

真の意味での大人であるためには、「自分の家族、肉親からも自立をしなければならない」と言うのが、私の主張である。

だから当然、子供が大学を卒業したら、親は自分の金を自分のために使えばよいのだよ。

趣味にでも生きて、そこで今までとは違った新しい人間関係を築くとよい。

肉親ではなく、趣味を共有する友人でも、お茶呑み友達でも良い。

近頃はブログ等と言うものも出来て、パソコンを使えれば孤独死は免れるのでは・・と思う。

と、思う・・・と言うのは、以前、blogと言うものに興味を抱いて、他の人のblogにアクセスしてみたのだが、いちいち相手の話に答える事がめんどくさくて苦痛だし、仕事も忙しく、blogをする時間も無かったからである。

・・・と言う事で、私自身のホームページではblogを開いた事はないので。

どうやら家族や血縁を大切にする日本の社会では、私のそういう考え方は、未だに情緒的には認められない、とても厳しい考え方なのだそうな。

手術をする時でも、遺産の相続の時でも、他人がサインをする事は日本の社会では認められない。

委任状を書いたとしても、その証明は弁護士等の立会いのものでなければならない。

私の手術の時にも、兄貴の入院と手術の時にも、車を飛ばしてサインをしに、駆けつけなければならない。私が、どんなに遠くにいても、どんなに体調が悪くとも・・である。

 

兄貴の奥さんは、離婚問題で10年以上ももめたままである。
最初は、奥さんが、自立をしたいと言い出したのだが、その時には兄貴の方が離婚しようとしなかった。
私がいくら離婚を勧めても・・である。
3年ほど経って、やっと兄貴が離婚する気になった時に、バブルが弾けて、女性の自立は難しくなってしまった。
という事で、今度は奥さんが「絶対に離婚しない。」と主張を変えてきた。
兄貴も「一番下の子供が大学を卒業するまでは、学資と生活費を送る。」という事になったのだが、一番下の子供が結婚して家を離れた今も、断固として離婚しようとはしない。
「家や、その他の財産になる物は全部持って行って良い。」と言っているのにである。

当然、別居生活は10年以上になる。
兄貴も体調が良くなく、傍で面倒を見てくれる人が必要なのだが、そういった諸事情があってそれもままならない。
子供には女の子もいるのだが、これも自分の利益の主張はしても、面倒を見るとか言うかったるい仕事はしない。

つまり、私が教室を立ち上げて、何十年、先生達と同居して、家族同然であったとしても、法律的には何の効力も無いのである。

不思議な社会だ。
私も兄貴も、否さ、お袋さえも、「近親縁者には遺産は渡したくない!」と言っている。

それなのに、法律的にちゃんと手続きをしない限り口約束では何の効力も無いのだ。

法律の問題はさておいて、日本社会では、親の子供に対する期待とは違って、現実的には、子供にとっては、親に育てられる事は当たり前の事で、感謝の対象にはならないのだよ。

今時の子供は「親は子供を育てる義務がある。」なんて、平気で言うのだから。

と言う事で、「老人ホームに預けたまま、1年に一回も会いに行かない。」と言う家族が誕生する。

「だいたい、君は両親とcommunication出来ているのかい?」 君の今の両親への接し方が、将来の子供からの世話のされ方だろうが・・・!

「否、私は子供達の世話になろうとは思っていないから・・!」

「ああ、それなら、子供達が社会に巣立って行った後では、長い長い、老後を旦那と二人で楽しく過ごすのかな?」

「それは・・・・???」

「それとも、老後は、一人っきりで過ごすのかな?」

「それは、寂しくって出来そうもない。」

「じゃあ、どうすんの?」

「・・・・・??」

そんなもんよ。若い人達の将来の設計は・・・・!

 

モンゴルの人は、

砂漠では、金よりも水の方が価値がある!

 

ヨージーの法則       

人から信頼され尊敬されるには、仮に相手の望む事全てが出来たとしても、出来る事を「出来る」と言う正直さより、相手が望む事に対してのみ「出来る」と言う方が良い

 

⇒この文章には解説が必要である。

「相手が望む願望を叶えるためには100の事をやらなければならないとしても、相手が1の事だけを望むとすれば、相手の願望が叶えられないとしても、残りの99を相手に押し付けるべきではない。」ということである。

 

内容的な事が同じだとしても、(心のありようで)吸収の速度が根本的に違う!

「人間は本当に望むのなら、吸収するのも早い。」 というのは綺麗事に過ぎない。

具体的には本当にプロのピアニストになりたかったとしても、心のありようを間違えて捉えるのなら、幾ら望んでいたとしても、結果に辿り着く事はない。

当たり前の話なのだが、人はそれを分からない。(分かろうとしない。)

卑しくも、音楽を勉強している人ならば、一度はプロになりたいという夢を持つであろう。
しかし、そこで、プロになれる人はほとんどいない。
プロとはその職種を言う言葉であり、プロと言う言葉が心の拠り所を示すものではない。
プロになって何がしたいのか?
何を目的としてプロになるのか?

一般の学校教育に於いても然りである。

有名大学に入学する事は、幸せを摑む事にはならない。
有名大学に入って何を将来的にしたいのか?   何がライフワークなのか?  それが人生の目的である。

しかし、それだけの夢も無く、人といたずらに競争をし、それで自分が将来の確固とした道を歩んでいると勘違いをしている。
確かに私達の時代は、学歴社会であり、縁故の社会であり、終身雇用の安定性が待っていた。
しかし、グローバルな世界規模では、日本のアカデミズムの頂点である東大等でも学歴としての評価の対象にはならないし、ましてや、大企業に入社したからといって、終身雇用の保証は全くない。
大企業であればあるほど、競争相手は多くなる。
いつなんどき、その地位から引き摺り下ろされるか分からない。
その企業の頂点を築く役員だとても、明日は分からないのだよ。
アメリカでは大企業の役員をやっている売れっ子の企業マンが、次に日には会社を追い出されて、ホームレスになっているなんて言う事は、ざらにあるのだよ。

だから、この日本でさえも、「寄らば大樹」 の時代はとっくの昔に終わってしまっているのだよ。

それに気付こうとしない、いや、気付きたくない、日本人が多い事。

 

無駄な事を省いて時短を考えればよい。

人生にとって、何が無駄なのか?

無駄を考える時に日本人は今現在の無駄を考える事が多い。

しかし、一見無駄に思えることでも、それが将来重要な事になる場合もある。

その逆に、今その子供の将来に重要に思える事でも、将来的には何の意味も無く、成長期の重要な時間を失うという事にもなりかねません。

そういった事も考え合わせて判断しなければなりません。

 

悩みは執着から起きる。

執着に捉われてしまった人には、自分の周りが見えない。

手を伸ばせば、そこに救いの手があるのに、執着に捉われてしまって、救いの手を見る事が出来ないのだ。

 

少子高齢化や不況によって、物余り現象が起きると、セレクトが起きる!

セレクトは本当にその人に必要なものも、セレクトしてしまう事が往々にしてある。

 

人は、対処療法と治療の違いが分からない。

悩みを相談してきても、自分を変えようとしないから、また時を待たずして、同じ悩みに陥る。

 

発表会で生徒の曲の仕上げが間に合わない

と言う事で、私のone lessonを求めてくる。

発表会と言う直前の目的があるので、仕方なく、私も曲を何とか曲りなりにでも、弾けるように指導する。

しかし、根本の欠点は直さないままである。

次の発表会でも、また、同じところで引っかかってしまう。

そして、私にone lessonを求めてくる。

私は無駄なone lessonをまたする。永遠の人生の無駄だね。

 

塾の指導法も対処の積み重ね

塾は企業だから、生徒の成績を上げる事が目的である。

生徒が理解出来ているか否かは問題ではない。

テストが解けるかどうかが絶対条件なのだ。

学校教育も同じである。

先生自身がその問題を解くのに何故その公式が用いられるのかが分かっていない。

本当は公式を導き出す過程が楽しいのにね。

 

「ぶっちょうづら」

一日を仏頂面で過ごす人がいる。

人生はたった一回しかないのにね。

貴重な一日を仏頂面で過ごす勿体なさを知らない。

 

夢と現実の狭間で

人生は夢幻、うたたの心で日を暮らす。

本当に生きているのか?

周りに対して、胸をはれる生き方をしているのか?

 

2009/06/13 () 23:36

テレビのコマーシャルで、「一郎が毎日同じ事を積み重ねて、今を作った。」と言っていた。

「一郎はなぜ同じ毎日を繰り返しているのに、未来が作れるのか?」とも、言っていた。

しかし、それは違う!

毎日同じ事をやっていたとしても、毎日が同じ事の積み重ねではなく、毎日が新しい発見だからだ!

ただ闇雲に同じことを繰り返しているだけでは未来は作れない。

無駄な練習、無駄な勉強、無駄な仕事、それらが闇雲の繰り返しにあたる。

 

2009/06/14 () 11:33

仕事の仕方(仕事の勉強の仕方)

昔の私のコンプレックスは、兎に角、ぶきっちょであることだった。

人が1の時間でやる事を、その3倍かかってやらないと出来ないし、出来上がりも他の人達と比べて見劣りのする出来上がりで、倍時間がかかったから、とても丁寧に綺麗に・・等と言えたものではなかった。

と言う事で、高校、大学と自分の生来のぶきっちょに悩まされ続けた。

それに、もう一つの致命的なコンプレックスは、どうしようもなく怠け者である事だ。

勤勉性の片鱗も無い。

そこで、そのコンプレックスを克服すべく、30歳までに工夫を重ね続けて、怠け者の仕事法というメトードを作り出した。

 

そのメトードの骨子は、

  時短の方法論・・一工程で済ませられるものは、総て一工程でやる。・・・これは、歳をとって病気がちになって、体力的に、町まで、買い物にも行けなくなった今では、なくてはならない方法論である。思いついた買い物memoを携帯からパソコンに送ると、自動仕分けで仕分けされる。池袋の買い物なら、池袋の買い物memoとして、パソコン上で仕分けするようにしている。そして、体調が良い時に一気に買い物を片付ける。同様に全ての仕事も体調を見ながら、一気に片付けるのである。

  代数化・・・・自分が仕事を覚える時も、生徒に指導する時も、その物を自体を指導するわけではない。常に、それを様式化し、セオリーとして把握できるように指導する。「これは**の時も同じだろう!?」と言うのが、私の口癖である。MozartHaydnsonate1曲完璧に学習すれば、全ての古典派の作曲家達の作品が完璧なinterpretationで演奏出来るはずである。古典派は古典派の様式で書かれているからである。それはどのような仕事でも同じである。

  括弧括り(定型作業)・・・仕事には単純作業と呼ばれるものがある。経理であれば、勘定科目の仕分けのような専門の仕事ではなく、その仕分けが終わりさえすれば、誰にでも出来る毎日の単純な入金処理等の作業が、仕事をする人の一日の時間を脅かしてしまう。経理だけではなく、会社の仕事にはコピー作業や単純な連絡等の所謂、単純作業と呼ばれるものが多くある。そういった作業は、パソコン等で機械的に処理するか、外注作業として、専門に人にオーダーするかの方が良い。しかし、その仕事をする側の人間が、時間にゆとりがある場合には、外注することは寧ろ無駄である。括弧くくり(定型)作業も、代数化の作業と同様に、まとめて処理が出来るからである。

  平行作業・・・・一つの仕事をやっていると、その工程のstagestageで、時間の空白が出来る。パソコンが仕事をしている時間、外注で他の人が仕事をしている時間、兎に角、一つの作業にはintervalが付き物である。そのintervalを最大に生かすことが、私の部屋にある10台近くのタイマーである。パソコンで原稿を書いている時には、DVDのデッキでlesson風景のダビングをする。仕事の終わりはタイマーが教えてくれる。合間、合間に次の日の仕事の準備をすることもある。仕事は漠然とするのではなく、ちゃんとstageに拠ったprojectとしてしなければならない。そうしなければ、平行作業も外注も機械に任せる事も出来なくなってしまう。左に掲載した写真は、私が弟子達にそういった仕事の仕方を説明するために作ったprojectcardである。自分ひとりで仕事のprojectを組むときには、2枚目のcardだけで充分である。しかし、人に仕事を依頼する時にはその仕事のconceptをしっかり理解させないといけない。だから右のcardが必要となる。また、自分で仕事が上手くいかないときにも、自分では分かっているつもりになっていても、本当には、その仕事のpointが理解できていない場合も往々にしてある。そういう場合には、仕事を図として描いてみて、projectとして、解析してみると、自分の弱い部分が一目瞭然となる。そういった意味でも、1枚目のcardは意味がある。








 べからづ集・・・仕事をする上での心得集である。その心得の中でもっとも大切な忠告は、「物をしまう」 と言う技術であろう。仕事のコツは「資料が速やかに瞬間的に出てくるか否かにかかっている」 と言っても過言ではない。物をしまう人達の括弧括りが、しまう側からの考え方を優先して、その資料を「どのように使うか?」と言う、「使用する立場では考えられていない」と言う事である。それを言い換えれば、とりもなおさず、「クライアントの立場にはなれない」、と言う、仕事をする上での致命的な事になるのではないのかな?

 

(詳しくはホームページを参照)

 

2009/06/14 () 17:01

ヨージーの法則

「忘れたことを忘れたら二度と思い出せない!」

当たり前の事に思われるかもしれないが、それで済ませてしまったら、それはそれだけの事で、無意味な話である。

記憶をするときに、思い出す糸口を作っておく事が、忘れないコツになる・・と言う事がsystemになるのだ。

 

2009/06/14 () 21:27

ホームページ「子供達へのお話」 から

「左じんごろうの話」 のつけたし      

首都高を走っていた時に、ビルの看板で、車の宣伝の看板があった。

本当の車と同じサイズくらいの看板かと思って見ていたら、近くに来たら、看板を掃除している人がいて、豆粒のように小さかった!

本当の車の3倍も4倍も大きかったのだよ。

しかし、全てがその原則に従うわけではない。

強弱やモーションは原則論通りに、オーバーにデフォルメして表現するが、テンポだけは距離には関しない。

テンポだけはデフォルメしてはいけないのだ。

 

2009/06/24 () 23:19

(テレビからの書き取り)

「変わる兆候がある時にちゃんと指導すればなんとかなる」

(北九州公立中学の校長)

でも、一般の先生達は、その兆候を見つけられないのだよな。

私達が幾ら、注意をしても、その「兆候」が現実の問題になって、具体的な問題とならない限り、その事を「兆候」として、理解する事が出来ないのだ。

自分にとっての問題は、ぎりぎりまで、見つけ出さない方が楽であるからである。

その結果が取り返しがつかないことになろうとしても・・・である。

 

2009/07/13 () 11:41

実直と愚鈍は違う!

成果を伴わない、勤勉さは評価される事は無い。

親や学校が如何に評価しようと、実社会では評価はされない。

実社会では、「出来たかどうか?」 だけが評価の対象なのだ。

 

2009/07/28 () 2:25

熱心に音楽をそれもクラシックを勉強している人達の不文律(・・・言いすぎだな!・・風評で良いか??)のようなものがある。

クラシックで演奏活動をしていく限り、生活は立たないと言う事だ。

全ての音大生は、私に話をしてくるときに、その前提で話をしてくる。

若い人達が話をしてくる相手である私自身が、音楽教室を開設するずっと以前から、クラシックの仕事だけで生活してきたのにね。

それに私が経営している音楽教室は、私の趣味でやっている教室だから、私の私財の持ち出しと先生達のボランティアで経営しているのだけれどね。

音楽大学を卒業した人達は音楽教室で生徒を指導すると生活が出来るようになると思い込んでいる。

音楽大学の卒業生に向けての大手企業の音楽教室の就職案内のチラシを見た。

そこには、実働が3日、4日で収入が幾らという結構良い条件が書いてあった。

しかしよく見てみると、その収入を支えているのは、リトミックや電子楽器による集団指導である。

私のホームページ「職業意識と所得」とか「音楽で食べていくのは大変よ」というページにより詳しく書かれているので、あまり詳しくは触れないが、場所と先生一人当たりの時間単価から割り出すと個人レッスンは決してよい職業とはいえない。

同じ部屋の使用料として計算すると、月謝換算で、一人を8000円で教えるのと、2000円で20人教えるのでは単位時間の収入は比べ物にならない。払う側の親にとっては同じ1時間を8000円と2000円では随分金額が具体的に違うし、先生にとっても、8000円と4万円ではお話にならない。

先ほどの大手企業の話に戻って、一人の先生が単位の時間を個人lessonで指導するのであれば、ペイは膨大に膨れ上がるし、その割りに先生にとっても所得には繋がらない。

そのためにそのペイを支えているのが、先ほど述べたリトミックや電子楽器による集団指導である。そうすれば、充分にその先生にペイを払う事が出来るのであるが、リトミックや電子楽器の集団指導はそれなりの経験を必要とする。音楽大学を卒業したばかりの先生が直ぐに集団を指導出来るかどうかは一考を要する。

(尤も、私達の教室の日曜日のオケや室内楽は先生達のボランティアである。私の教育理念を具現化するために先生達が手弁当で指導している。半年の練習会費が1万円という事は有り得ない。それは楽譜代にもならないからである。)

(詳しくはホームページを参照)

 

2009/08/28 () 13:45

ヨージーの法則

「時短が本当に必要な人は、忙しい人だけである」

 

2009/09/07 () 9:07

箱物としての教室の条件

先生達が教室を探していた。

当然、教室には私達のメトードを生かすための、条件がある。

しかし、先生達は探す前から、「そんな条件を100%満たすような物件があるわけはない」 と言う前提で探している!

どこで妥協するのかという70%の考え方をしていては駄目なのだ。

「でも、なきゃあしょうがないじゃない!」というのが、一般人の凡人の理論!人の上に立つ人は、事前に次の工程を見ていて、常日頃リサーチをしている!

教室で指導する先生を面接する時でも、先生が辞める事が事前に分かった時点で、私は面接を始めたのに、その時点で先生を雇って養成しようとしないで、先生が辞めて、実際に教室の人手が足りなくなってしまってから、アップ・アップしてそれから先生を集めようとしても、それは所詮負け戦に過ぎない!

教室を開く場所についても、いつものように私が一人だけで動いて、周りはついてこないで、私だけ空回りしている。

それでは、いつまで経っても教室経営は尻つぼみするだけだ!

 

2009/09/13 () 12:36

昔々、私がいつも皆に話ていた事なのだけど、ドイツの音楽大学で、室内楽の新曲の練習を始める時に教授が「みんなに良く聞こえるように、sempre fortissimoで弾こう!」と言った!

日本では、最初から強弱記号を守って弾かせる。

その練習法の差は大きい。

 

2009/10/09 () 22:47

何気ない事に見えるのだが

大手の音楽教室の先生が発表会を見学に来て、オケや室内楽の子供達のお辞儀が、(Pianoの伴奏もないのに)揃う事を不思議がっていた。

お辞儀が揃うのも、教育システム(芦塚メトード)のひとつで、集中力の訓練の賜物である。

 

2009/10/13 () 1:30

日本人の音楽家は、曲を演奏する時に、CDの聞き覚えなどで、イミテーションで、それなりには似たような音はだしている。しかし、それだけで満足してしまっている。

 

2010/01/03 () 17:44

小学校の音楽の先生が言っていたこと(純子が小学校に音教に行ったときの話)

音楽の授業の一貫で、芸術鑑賞ということで、ヴァイオリンの演奏をしに行きました。

生徒さんたちはみんな静かによく聞いてくれて演奏が終わり、授業の終わりに音楽の先生がまとめとして生徒さんたちにこう言いました。

「みんなよく我慢してきいていましたね。」

先生は生徒さんたちに、静かに聞けたことを褒めたつもりで言っていたようですが、演奏した人に対して失礼な言い方でもある、ということにも気づかないくらい、「クラッシック音楽とは、つまらなくて我慢して聞くものなのだ。」という概念が定着している。

 

2010/01/30 () 13:28

その一手間を惜しむから、時短が出来ない

時短が出来ない人が、必ず言う言葉がある。

「その一手間をかけるよりも、やった方が早い。」

 

2010/02/22 () 8:46

失敗作が自分を育てた!

 

2010/02/25 () 9:17

一般の教室が「子供の指導を親に手伝わせる」ということは、先生が子供に指導する手間を省く、というだけの話ではなく、親に対して、子供の教育をしていると言う満足感を与える事にもなるし、親の子供の教育と言う事に対しての価値付けにもなっているのだ。

親に対しての子育ての指導は、理論的な話ではなく、いつも、身近で具体的であると言う事がベストなのだよ!

 

2010/03/31(水)832

安くないのに売れるスーパー 

「今日のテレビ」より    (テレビからの書き取り)

*めんどくさいと思った瞬間にそのスーパーはつぶれる。

*売り上げより挨拶

2:8の法則」2割の顧客が8割の売り上げを支える。

安売り競争に突入すると確実につぶれる。

オリジナルな商品は価格競争にはならない。

 

2010/07/29 () 11:02

ヨーロッパでは音楽の勉強をする時には、先生を求めて行くのだが、日本人は有名な学校に行く。

日本では、一般の人が質問する時には、「どの大学の卒業ですか?」とは、聞くが「どの先生の教室ですか?」とは聞かない。

その学校で自分を誰が指導してくれるのかは、日本人の場合には問題にはならない。

学校がよければ、そこで指導している先生は良いという前提である。ヨーロッパ人にはそこが理解できない。

私も・・・・!

 

Tuesday, August 03, 20109:35 PM

音楽大学の院生が、「音楽では食べれない。」と言う話をしていたので、私が「音楽学校は職業学校なんじゃないのですか?」と質問したら、院生の返事

「音楽を職業ということで、考えたことがなかったので・・・」

 

2010/09/02 () 16:42

リュウマチで一番困るのは、指先の感覚が鈍ることである。

加齢と言うのか、同時期に目も弱って来ているので、テーブルの縁が定かではない。

物を持ったつもりがポロリと落としてしまったり、置いたつもりが落ちてしまう。

自分としては結構、テーブルの奥の方に置いたつもりなのにである。

しっかりと意識をしてつかんだつもりが、湯飲みの表面を撫でている。

しっかりと目線が追っているのにもかかわらず・・・、である。

これが「老い」と言うものであろうか?

「いやぁ~、ただの加齢だよ!」

 

2010/09/05 () 12:32

ある意味、教育熱心であればある程度、教育に関して頑迷になる

教育に自信のある人や教職に携わる人の子供はある程度は伸ばせても、それ以上は指導者と親のトラディショナルな価値観との戦いになる。

 

2010/09/10 () 16:07

音楽用語

「タメ」と「こらえ性」

寧ろ精神的なものである

 

2010/10/01 () 6:22

当たり前の事ですが、芦塚メトードは音楽大学の受験生やコンクールの受験生には使用しません。

一般の人達は「芦塚音楽研究所の音楽教室から音楽大学に進学した人達は、芦塚メトードをマイスター出来ていて、いつでも生徒達を指導出来るのでは?」 と思い込んでいる。もっと酷いケースでは、芦塚音楽教室で音楽を学んでいるから芦塚メトードが分かっている、と思い込んでいる人も入る。

しかし、芦塚メトードは日本の従来の音楽教育に対して、kritikの上に理論が成り立っている。従来の教育の諸問題を解決すべくorganization(オルガニゼーション)された理論である。だから、コンクールや音楽大学の受験生には、従来のトラディショナルな教育を施す。そこに芦塚メトードの入る余地は無い。

芦塚メトードで技術を身に付ける事は出来たとしても、それで芦塚メトードが理解出来る分けではないのだ。

芦塚メトードでプロを目指したとしても、それは芦塚メトード学んでいる分けではない。

芦塚メトード学んでいるに過ぎないのである。

技術は単なる道具にしか過ぎないからである。

 

2010/11/05 () 18:55

ジェラシーは条件が同じ場合に言う事が出来る!

相手と同じ目標を持ち、同じ努力をしないで、ジェラシーを持つ事は許されない!

 

子供達への一言

今週は、自分に対して誠実であったか?

 

アドバイスしても聞けないパターン

①喧嘩を売られたと受け取る

②被害妄想:いじめられたと受け取る

③被害妄想:認めてもらえないと受け取る

④自分に自信があって人の意見を聞かない

⑤聞く姿勢はあるけど、時間が経つと自分の考えに戻ってしまう。

⑥言われたとおりにやっているつもりになっていて全然出来ていない。

⑦聞いただけで自分が出来た気になっている。

 

コンビニに行けば・・・・

今の若い人達は「欲しい物が手元に無ければ、何でもコンビニに行って買えばよい。」と言う発想がある。

或る監督が映画の撮影でモンゴルに行った時の話である。

監督が撮影中に助手に「**を持って来て!」と言ったのだが、実はその**を日本から持ってくるのを忘れていた。

そのときに助手は「コンビニはどこにあるの?」と現地のスタッフに尋ねた。

現地スタッフは、「500㌔ぐらい南にあります。」と答えた。

助手はそれで諦めて監督に報告したのだが、現地のスタッフの人達はありあわせの材料でその**を作り始めた。

日本の若者の意識と、モンゴルの若者の意識の差を見た感じだったと、そのときの監督は述べている。

 

プロとしての音楽への捉え方は、アカデミズム的な捉え方と職人としての捉え方がある。 

 

マイナーチェンジを、定価を安くするために品質を落とす事と勘違いしている人が結構多い。

しかし、本来のマイナーチェンジの意味は、無意味なデコレーションとか不必要かバーツを捨てると言う事なので、製品本来の質を落とすと言う意味は含まれない!

 

(文章の途中から・・・・)

今ここでは、テレビの弊害について述べているのではないので、もう一つだけの話を例に挙げて、テレビについてのお話は終わりにしておきます。

もう一つの弊害とは、「テレビは知識を与えるものである。」という考え方は、テレビを見る側が判断力を持った大人を対象にしているからなのです。

しかし、今私達が問題にしているのは、子供達のテレビ依存の話なのです。子供達はまだテレビを見てそこから正しいものを掴み取るだけの判断力も無く、ひたすらテレビにしがみついて、テレビの与えるものを無意識、無批判に受け入れていきます。

ロボトミー手術を受けた患者か、マインドコントロールされた人間のように、テレビを見ている時の子供は無批判で無思考です。

人間の心は他人とのcommunicationで成長していくのです。

しかし、テレビは一方的に与えるだけで、子供の意識を配慮するわけではありません。

面白ければよい。社会的なルールも人へのいたわりや小動物への慈しみもありません。

その結果として、子供の時からテレビとゲームだけの世界で暮らしてきた子供は、自分自身へのコントロールが出来なくなって、授業中でも教室の中をうろうろと歩いたり、先生の制止も友達の注意も聞けないし、という多動の症状を起こします。

また情緒というものも育っていないので、人の痛みを推し量る事も出来ません。

そういった今日的な人間が育ってくるのです。

(この話は心理学的なことから説明をしなければならないので、大変な長い論文になってしまいますので、ここではしません。ホームページ:教育論文参照)

 

仕事には医者のように大学から研鑽を始めても、なれる職業がある。

芸術の分野でも役者や画家、彫刻家、詩人や作家など、年齢が行ってからでも始められる職業がある。

しかし、その反面バレリーナのように子供の内から努力をして体を作っていかなければならない職業もあるのだ。音楽における演奏家という職業もそういった体を作らないといけない典型的な職業に属する。

 

日本人の場合には、自分の子供が社会的に認められた時に、親は殆どの例で「評価しています。」と言うのだが、外国人の場合には、必ずと言っていいほど、「誇りに思います。」と言う。

これは上から目線の立場と、同等の立場の違いなのです。

 

児童虐待通報年間4万件以上

虐待する側の親の自覚は全くない!

その後、虐待の通報が義務化されて、報告を怠った場合には罰則も決められた。当然、児童虐待の通報は爆発的に増えたよ!

 

NHKのテレビを見ていたら、宮崎駿さんへ中年女性(渡邊あゆみ)がインタビューしているときに「時間は誰にとっても同じ速度で過ぎていくのに・・」と言っていた。

その言葉を聞いて私は「むっ!」とした。

時間の流れは人によって同じ速度で流れているわけではない。

有り余る時間を持て余している人もいるし、時間が足りなくって必死になっている人も居る。

時間の価値はその人が如何に時間を大切にしているかで決まるのだ。

 

瀬戸内寂聴さんが「88年生きてきて、今ほど酷い時代はない!」と言っていた。

 

私たちの教室の生徒は、練習の仕方が上手なだけで、練習をよくするわけではないのです。

 

人生プラマイ論

集中とは楽しい集中と、辛い集中がある

 

女子大生亡国論

1960年(昭和35年)文学部などでは女子学生の比率が高くなった。

1970年代でも大学を卒業しても、就職する女性は少なく単に教養を身に付けるために大学に学ぶ女性が多かった。

1980年代 オールナイトフジの女子大生ブーム

 

主婦にとっての日常の些細な出来事

主婦にとっては、日常の一見くだらないと思われる一つ一つの出来事の積み重ねで追い詰められて行く。

母親でもない、妻でもない、自分の部分を周りの人から一人の人間として認めてもらえない、それが離婚の引き金となる。

 

ピアノでもヴァイオリンでも、普通はある程度、上手になるとより簡単な曲は初見でも弾けるようになる。

しかし、例外的に、音楽のプロの活動をしている人でも、音楽の初心者と同じように譜読みや練習に時間がかかる人がいる。そういった人は、習得した技術にばらつきがあるのだ。

将来的には、プロの世界で生き続ける事が困難になってしまうだろう。

プロのプライドをかなぐり捨ててでも、一日も早く劣っている技術を習得しなおすべきである。

 

自分が努力したことが正当に評価されるのであれば、その努力は報われる。

しかし実際の人生では、正当な評価を受けることの方が稀である!

 

2008/09/14 () 13:01

プライドが高い⇔見栄っ張り・高慢・うぬぼれ

この話は既にホームページに書いている。プライドと言う意味を日本人は勘違いをしている。

利己主義を個人主義と勘違いするように、或いは、集団の暴力を民主主義と勘違いするように。

 

キャパシティ

仕事をこなしていて、仕事の量でアップ・アップしてしまうのは、一つ一つの仕事を独立した仕事として行くからである。

そうすると仕事数は無制限に増えてしまう。

その結果、仕事をこなせなくなってアップ・アップしてしまう。

 

一つの仕事をやっているときに、価値づけなどの別のコンセプトを同時に乗せていくと言うのは、そういった企画をするのではなく、ある企画のときに何が相乗り出来るかということ常に状況判断するということである。

そのためには抱えている仕事の作業内容や工程が、何であるか?ということをいつも理解して記憶しておかなければならない。

 

頭でっかちの観念論、何も考えようとしない感情論、年に物を言わせるだけの経験論、

経験のない若者や経験をする事すら許されない戦争犯罪などを、歴史で学ぶことができる。

人類の文化は人々の英知の積み重ねである。

先人達から学ぶ事は多い。

 

ドイツ語や英語で「留意点」という単語を探したのだが、合うのがない。

checkpointというのが一番近いのかな?

 

現代の日本ほど、若者がすべてに対して刹那的に生きている社会は無かったであろう。

マスコミのせい、学校教育のせい、政治のせい、否、そのすべてであるといえよう。

日本には制限速度が50キロであり、しかも信号まである、という不思議な高速道路がある。

首都高速道路である。

高速と銘打っているのに、実はただの自動車専用道路である。

その、高速道路がやっと完成したときに、すでに渋滞が始まっていて、高速道路の態をなしていない。

マスコミなどの本によると、高速道路を設計した人が、将来の渋滞を見越さないで設計したと書かれている場合が多い。

しかし、それは大変な間違いである。最初に高速道路を設計した丹下健三は東京の将来的な車社会における大渋滞を予測し、首都の外環を制限速度百キロのリングで結び、その外環から目的地に到達するという、ヨーロッパではミュンヘンの高速道などにみられる構想をしていた。

しかし、首都高が政治家たちの企画にのぼったときには、まだ車は少なく、渋滞という車社会の到来も予測をしてなかった。

そればかりか、当時の政治家達は徳川家康がすべての幹線道路を皇居の周りに集めるという、中央集権的な400年も前の、都市計画をそのまま使用して、日本国じゅうから集まって来る車が、皇居の周りのわずか4、5キロの環状線に集まって来るという、とんでもない計画を押し通した。

10年後の、あるいは20年後の車社会のときには、政治家にとって、自分たちの仕事は、もう忘れ去られている、という前提からである。

20年後、30年後には、首都高を作った政治家は、もう歳をとって政治の現場にはいないからである。

だから、後世で評価されるよりも、現在一般の大衆に認められることの方が大切だからである。

 

戦後の教育では、確かに戦後の荒廃から如何に復興させるか、あるいは当面の生活を如何に早く豊かにするか、ということのみがすべてであった。

それは、朝鮮特需や神武景気などの時代のバックアップもあって、経済復興という名目のもとに、精神的な物をすべて忘れて、経済力がすべてであるという風潮を社会にもたらした。

ステテコを履いて、下駄に丸眼鏡、胴巻きを片手に世界中の物を買いあさるエコノミックアニマルとして、日本のサラリーマンが世界中から嘲笑された戦後の長い時代は、バブルの崩壊まで続く。

しかし、今現在子供たちを育てている親たちは、そのバブルの時代に、幼少期を送ってきた世代である。

だから、その価値は常に今現在の評価である。

いま評価されなければ何の意味もない、という独特の日本の社会が今ここにある。

 

Orchestraviola奏者の女性が、新しく買ったヴィオラ(結構名器!)の横板が厚いので、自分に合うように横板を短く削って作り直していた。

弦のプレイヤー達が挙って「犯罪だ!」と声を上げていた。

私に「犯罪かしら?」と聞いてきたので、「そりゃ、犯罪でしょう!」と答えた。

 

ヨーロッパでは古い町並みに住みたい人はその景観を保全する事が義務であり、古い文化を踏襲することがその町に住む、その人のステータスであった。

だからヨーロッパ人が、現代的なアメリカナイズ化した便利な機能的な町に住みたければ、郊外の文化都市圏に住めば良いのだ。

美しい旧市街に住みたければ、便利さ、利便性を諦めなければならない。

それが当たり前の事なのだ。

 

memo書き)

教育の基本は

按配、匙加減

碎啄同機

 

人間が確実に残せると信じているもの

一般の人間が自分自身が残せると信じているもの、それは子供と家と墓石だ。

しかし、実際には・・・・

 

NHKの番組から(テレビからの書き取り)

(爆笑問題のインタビュー  相手は誰か分からん??)

感動しないと頭に入らない!

受験勉強ばかりで「作る」という経験をしていない!

 

[予定は未定]

人と一緒に仕事をして行くには、相手が自分のローテーションに合わせられるように、事前に連絡しておかなければならない。

そうしないと、直前で「ああしろ!こうしろ!」と、人を振り回してしまって、結果、最終的には誰も手伝ってくれなくなる!

で、何時の、何の予定だよ・・・・!!

 

2010/06/26 () 4:50

(テレビからの書き取り)

畜産農家の親父が、息子に言った一言!

「馬鹿やろう!見て分からん奴が聞いて分かるか!!

 

2011/01/03 () 18:08

(テレビからの書き取り)

学歴が高いほど、笑いが少ない!

 

2011/02/06 () 13:26

競争教育     

競争する教育は挫折を生み出すだけではなく、独創性も生み出さない!

何故なら、真に独創的なものは比較対象されるものがないからである!

 

2011/02/20 () 10:43

「見学に来た音大生」

子供達の水準が分からない!

分かる程の水準ではない

この話は何も音大生に限ったことではない。

その子供本人も、或いはその両親も子供の持つ技術や音楽的な水準が分からない。

周りが見えるようになると言う事は、難しいのだよ。

 

2011/04/02 () 19:05

器用貧乏

器用貧乏と言う言葉がある。

器用とプロの水準は比べるべくもないからだ。

 

2011/04/16 () 9:01

(テレビからの書き取り)

色気とは、存在である。くねくねする事は色気ではない。

辻村じゅんざぶろう    人形師

 

2011/04/16 () 11:37

NHKの番組から(テレビからの書き取り)    

高校の4人に一人が高校を中退している。

一番の理由は経済的な理由

その次は、高校で勉強する理由が見出せない

 

2011/04/23 () 22:28

NHKの番組から(テレビからの書き取り)

画壇の権威が序列のピラミッドを作る

 

2011/05/11 () 3:29

教育とは教え導く事ではなく、引き出す手助けをする事である。

 

2011/05/19 () 13:20

指揮の出来ない曲

orchestraの作品でも、作曲技法が室内楽の書法であれば、それぞれのpartが独立をして動き出すので、指揮をするのは困難になる。Aparteinsatzを出せば、当然Bに指示を与える事は出来なくなるからである。

 

2010/03/05 () 3:14

センチメントの季節

(十代の少女の危うげな性と心の葛藤をとても淡いtouchで描いている。その中に勿論、detailは違うのだが、偶然私が書いている小説と同じストーリーの作品があった。ストーリーの細やかな流れが、繊細な絵に描き出されている。)

 

私が小説を書く時も、頭に浮かぶストーリーが、文字としてではなく、映画のようにその光景を見る。その光景や人物の動きを如何にリアルに言葉に描き、置き換えるかで、苦労して結局、文章力の不足で、行き詰まってしまう。

マンガやイラストであれば、何も悩まなくても、頭に思い描いている光景をそのまま書けばよいのだ。自分の絵の表現力の無さに失望してしまう。

 

2011/06/10 () 14:50

先生へのアドバイス   

子供がブレるのは、親がブレるからです。

 

2011/06/13 (月) 22:28

「不気味の谷」

人間型のロボットは動作や外観が人間に近くになるに従って、高感度が増す。

しかし、ある程度より人間に似てくると、人々はロボットに対して嫌悪感や不気味さを感じる。

しかし、それ以上人間に似てくると、また人は高感度を持つ。その人間がロボットに対して嫌悪感や不気味さを感じるpointを「不気味の谷」と呼ぶらしい。

とうとう、その「不気味の谷」のロボット達がコマーシャルにもドラマにも登場するようになった。

「不気味の谷」と言う言葉の提唱者は良く分からないが、東工大の森正弘教授らしい。

森正弘教授は私がまだ高校時代に憧れていた先生である。私が森先生を知ったのは、ロボット博士森正弘の「仏教入門」という、それまで私が読んでいた仏教の本とは違う切り口を持った本を見つけた事による。その後は、メカニマルという、当時は科学技術館で見る事の出来た、目が赤い赤外線センサーを持った金属で出来た蛇や、海の生物達やニタリヒトムレツクリ(要するに似たり人群れ作り)という箱型の小さなロボット達を見て、わくわくさせられたりした。メカニマルの考案者は富谷龍一氏であるらしいが、メカニマルの原型の簡単な物は金属のカムやモーターの力の伝達を教える基本的な教材として、販売されたので、私もいくつかキットを買ってきて、センサーを持たない機械タイプのムカデや、逆にセンサーで動く自走型のロボット等を幾つか作って遊んだ。

 

2011年7月22日

祖母は晩年、80歳90歳を迎えて、雲仙の叔母のホテルの一室で暮らしていた。

祖母は、「本家の畑で土いじりをしながら死にたい。」といつも私にこぼしていた。

叔母に、祖母の話を伝えると、「それは良く分かっているのだが、幾らお金を払って雇っても、今の若い人は、思いやりを持って誰も付き添ってくれないから。」と、言っていた。

「幾ら、本人の希望でも、娘としては、老人を一人で田舎暮らしをさせる分けにはいかないから。」と言う分けである。確かに、世間体としては、叔母の言うように、それでよかったのだろうか、私には分からない。

今も、現実に私の母親が90歳を越して、郷里で一人暮らしをしている。

2,3年前に、1,2ヶ月ほど兄貴と暮らしたのだが、直ぐに喧嘩別れをして、長崎に帰ってしまった。

その理由は、兄貴にも言い分があるし、母親にも言い分がある。

如何ともし難い。

マンション型の老人ホームのような所で、暮らせればよいのだろうが、母親は、兎に角、人との協調が出来ないし、今更、知らない土地で知らない人達と暮らしても暮らせないだろうし。

それで80年、90年生きてきたのだから、今更「どうしろ。こうしろ。」とも言えないし・・・。

東京や千葉の小さな8畳一間の生活は、今更とても無理だろうし、持っている荷物を「整理しろ。」と言っても、「捨てるのがいやなら、私が貰ってやるから。」と言っても、私にさえ、手放せないのだから、今ある大荷物を処分する事は、とても無理だろうし、逆に私達が長崎に今から帰っても、この歳になって今更生活を立てる事も出来ないだろうし。

いや、自分の親と言えども、人を扱うのは難しい。

 

2011年7月28日(木)23:44

人はある水準まで行くと、その人にアドバイス出来る人はいなくなるし、当然、その人が勉強するような参考文献のようなものも存在しなくなる。

曰く「私の前に道は無く、私の後に道は出来る。」である。

しかし、一般の人達にとっては、未知の分野というものを体験した事は無い。当然、未踏の地を歩く人の苦しみなど理解できるわけではない。

何かを成し遂げようとする人はその無知に悩まされる。

 

それと、よく似た事ではあるが、ヨーロッパの音楽をやっていると、歴史的な作曲家達にとっては当たり前の、手法なのに、色々な文献を調べても出て来ない作曲技法や通説が色々と出てくる。

と言う事で、「これは君達が音楽の文献を調べても、ネットで調べても全く出て来ない作曲上の常識なのだが・・・・」という、子供達を前にした、私のオケ練習でのお話が始まる。あまりにも当たり前の事であっても、国や時代、それに同じ音楽であったとしてもそのジャンルが違う場合にはその常識は常識ではなくなるのだ。ヨーロッパ人にとっては生れ付いてのものである3拍子のrhythmも2千年、3千年の歴史で1曲の3拍子の曲も知らなかった日本人のDNDの中には3拍子の概念は存在しない。誰もが弾けていると思い込んでいる、当たり前の3拍子であっても、それをプロの演奏として本当のrhythmを勉強し始めると、分かっていてもなかなか出来ないという落とし穴に落ち込む事になる。知っているはずなのに全く分かっていないという常識の非常識が、ありとあらゆるジャンルの芸術にあって、プロを極めようとする人達を根本から苦しめる。

 

 

本来的にはこの論文(メモ帳)は、芦塚音楽研究所のホームページ、「芦塚先生のお部屋」のページに載せられるべきものであろう。
しかし、ブログ的な私的な、それにメモ的な内容では、教室のホームページとはまた異質の文章である。
この文章から、推敲を重ねて「芦塚先生のお部屋」に掲載すべきであろうが、これはこれで、そのまま一応掲載しておく。