高校時代


B6の変形ノートにぎっしりと綴られた病床日誌です。
入院中の時期に書かれたものです
多分、高校2年の3学期の1963年の2月15日(金)に大学病院に入院してから、書き始められた日記です。
1963年というと、ケネディ大統領が暗殺された年です。
力道山が刺されて死んだ年でもあります。
・・・・と言っても、今の人達には力道山といっても、知らんか??
いづれにしても、日本の端っこのしかも高校生の私には関係のない話で、そういった時事が、この日記に書かれる事はありません。
書かれた文章の大半は、そのほとんどが個人的な詩やエッセイで、日記風な所はあまりありません。私自身が自分の日記を書いた事は、この長い人生を通じて全くないのです。

ですから、この病床日記も、あくまでも詩やエッセイの文章の間に、欄外のmemo書きとして、・・例えば、「5月の10日の金曜日」に、「来週の水曜日に腎臓の摘出」とmemoが書いてあって、次の6月の18日のページには、「手術1日延期」と書いてあるのです。

ところが、6月の20日には、「昨日手術があった。」と書いてある。
「えっ??」

・・・今にしては理解不能だ。

では、実際の腎臓摘出の手術は何日だったのだろう・・・??

でも、基本的には最初から日記としては書かれていないので、memoの文章が雑であったり、dataが落ちているのは致し方ない。
それに、一言で、「手術」とはいっても、全身麻酔の「腎臓摘出の手術」から、膀胱や尿道の潰瘍を焼く「電気メスの手術」まで色々あるのだが、それらを正確に後日確認するために書いたmemoとしてのノートではないからである。

高校生、当時の私は、MozartやSchumannに凝っていて、立原道造の熱烈なシンパでもあった。
手術前後の6月10日には、「今日立原道造全集(全5冊)のうち3冊が届いた。
金二千八百五十円なり。尾崎さん(看護婦さん)が結婚のために二、三日中にやめるそうだ。
高木さんが(看護婦さん)『あんたの好きそうな本ね!』と言ったから、『当たり前だ!嫌な本なら買うものか!』と言った。」という記述が出てくる。
高木さんの写真です。

これだけを読むと、看護婦と険悪な関係のように見えてしまうが、実際には、お姉さんに悪態をついている弟という感覚で、甘えているだけの会話である。
だから、当然、その後の看護婦さんの会話も推して知るべしなのだが、そこは書いてはいない。
兎に角、大学病院には、基本的には年寄りが中心なので、高校生ぐらいの若者は珍しい。
だから、とても看護婦さんや医者の先生達からも、可愛がられるのだよ。
その中でも、高木あけみさんと尾崎直子さんの二人が特別に可愛がってくれたのだよ。
・・・・という中での憎まれ口だなゃ。

左の写真は、この日記の中のあるPageの写真だが、不思議な事に、このページは作曲のmemo書き(覚書)になっている。
何が不思議か??・・というと、この時期には、私はまだ、ピアノを(と言うか音楽そのものを)未だ習っていないからだ。

私の場合にはピアノを学ぶよりも早く作曲をしていた。

作曲ノートは早いものでは、中学1年生の時からの作曲がある。
つまり音楽を学ぶ前に、耳かじりで作曲をしていたのだが、楽譜の書き方はちゃんと理に適っている。

そこが不思議だ。

実際にピアノを学び始める時期は、半年後の7月の26日に大学病院を退院して、本原の県営住宅での一人暮らしの自宅療養の期間が終了して、学校に通う事が出来るようになってから、それから音楽を学ぶ事が許されるわけなので、退院後の・・というか、退院してから、まるまる1年後ぐらい経ってから、やっと音楽を学び始める事が出来るのだが。

いずれにしても、この日記の内容を、だらだらとホームページに記載する事は、無意味だと思うので、これ以上は触れない事にする。

また、昔懐かしくなる時でもあったら、この日記にも触れる事もあるかも知れない。

いずれにしても、病院を退院する事が出来ても、それで学校に行ける分けではなく、それからも、約1年近く自宅療養で安静にしていなければならなかった。

一人暮らしで、夜ふかししたり、遊んだりしなかったか??・・って??
そんな体力がある分けがないじゃないのよ!

昔の手術は、それこそ術後が本当に大変だったのだよ!!
退院したからといって、即、高校生活や日常の生活に戻る事は出来なかったのだよ。
また、自宅療養とは言っても、所詮は一人暮らしなので、日常のほとんどは自分でしなければなりませんでした。
朝と晩の食事は、入院前と同様に、病院(とはいっても、大学病院の事ではありませんよ。お袋の旦那が開業していて、その病院にお袋が住んでいたのです。歩いて15分ぐらいの距離かな?でも、お袋が弁当を届けに来たり、訪ねて来る事は相変わらず、ありませんでしたがね。)の看護見習いの女の子が前と同じように、届けてくれました。
入院前と何も変わらない日常が戻ってきました。



その自宅療養中の時のことを綴ったノートもあります。
下の写真のノートは上の写真のノートと全く同じに見えますが、その退院した後の日常の毎日を綴ったノートです。
B5版にぎっしり綴られたノートで、1963年から1966年東京での生活を始めた頃までのノートです。
日記それ自体に記述されている主な内容は、病床日誌にしても退院以降のノートにしても、その日その日を綴る日誌的な部分は極端に少なく、エッセイや詩、小説童話等の草稿を兼ねています。
この病床日誌と退院以後の日誌の大きな違いは、相変わらず、ミミズの這ったような小さな文字で綴られている所は同じなのですが、その書体や文字は、随分落ちついたように見えます。

病床日誌では、少し、人生を斜(ハス)に構えたようなギスギスした文字や文章が、小さな文字という事自体は何も変わっていないのですが、少しは落ち着きを持って書かれているような気がします。
日誌に書かれている詩やエッセイの完成度も少しずつ上がってきて、後日、音楽大学の1年生の時に編集した、私の処女詩集である「ある少年のメルヘン」もこういった色々な日誌から少しづつ集められて、再構成された文集なのです。









高校1年の時の学生証の写真
大学病院に入院する直前の頃です。

近所の床屋さんが何を勘違いしたのか、髪を短くカットしてしまいました。
実は、諫早の田舎の小学校は、昔ながらの、小学生は学生服で坊主頭が決まりでした。
中学校からは、長髪も認められていたので、中学生になった途端に、「やった!」とばかりに髪を伸ばし始めました。
というか、前髪が後ろをくるりと回るぐらいの長髪で、当時、流行っていたビートルズの誰かに似ていると何時も言われていて、「ビートルズの真似で長髪をしているのだろう。」と言われていました。
私自身の方が、ビートルズが流行る前の中学1年生の頃から既に、それぐらい伸ばしていたし、クラシックの音楽しか聞かなかったので、それこそビートルズと言われても、全く当時は知らなかったので、そう言われる事自体不本意でしたが、別に意にも介していませんでした。(周りの女の子達は結構、褒め言葉のつもりだった、みたいですがね。本人が、その事を知らなければ、褒め言葉にもならないのですよ。学校の女の子達からは、ビートルズの中の一人が高校時代の私に似ているーという話もあったらしく、今でも時々その話が出る事はありますが、残念ながら、その人が誰なのか私は今だに知りません。それよりも、髪を伸ばしたのが、ビートルズの真似と言われた事自体が不本意で、不愉快だったので・・・!!)

中学生になって以来、一度も髪を短くしたことはなかったので、ちょっとご機嫌斜めです。




私の年(世代的に)に、しかも地方の田舎町で音楽などをやっていたというと、「何処のおっぼちゃまかしら・・・??」 と思われそうですが、本当に地方の片田舎の町で育った私にとって音楽を学ぶ(ピアノやヴァイオリンを)ということは有り得ない事でした。

どこかに書いた覚えがありますが、私が小学5、6年生の頃に、ピアノを習いたくなって、小学校の音楽のおばあちゃん先生に「ピアノを教えてください。」と頼んだ事があります。

当時の諫早市には、まだピアノという楽器は大変めづらしい貴重なもので、私が通っていたその小学校とその音楽の先生ぐらいしかピアノを持っていませんでした。
一般の学校というのは、当時はまだブカブカオルガンで授業をしていた時代なのですよ。

ブカブカオルガンというのは、45鍵ぐらいの足踏みのオルガンの事です。

私の持っていたブカブカオルガンです。「母さん、あのオルガンはどうなったでしょうね??」

小学生の私はまだ、音楽をお金を払って習うものだという発想もありませんでした。
小学校の先生は困った顔をして、「習いに来ているのは女の子だけだからねえ?家でよく相談して頂戴?!」と婉曲的に断られてしまいました。
中学2年生の時に、母親の元に引っ越して、長崎の中学校に転校しました。
私なりに好きな音楽の部活に入りたくて、その中学校に唯一あった合唱部に入部を申し込んだのですが、「部員が女の子だけだから・・」という理由で、断られてしまいました。私達の幼年時代は男の子は音楽等をするものではなかったのですよ。
県でも当時は有数の受験高校に入学しましたが、その高校ですら、まだブラスバンドのなかった時代なのですよ。
やっと、お金の掛からない合唱部があっただけなのです。
勿論、私はその合唱部に入部する事になるのですがね。
左の写真は合唱部の打ち上げの写真です。
合唱部の仲間というよりは、1年生の時の私のクラスの同級生と言った方が良いのかな??
この合唱部の卒業生は東大の柏葉会(私達は悪口でシラカバ会と言っていますが、勿論、ハクヨウカイ合唱団です。)の合唱部に入るのが、定形です。
ですから、合唱部の歴代の先輩達も東大生です。

実際に音楽というか、ピアノを学び始める事が出来たのは、この写真の一年後の、大病をして、大学病院に入院して、手術、退院した後からのことでした。

実はそれまでは近親縁者も含めて、当然、私は家業を継いで医者になるものだと思っていたようです。私の実の父は長崎大学の助教授でしたが、原爆で33歳で夭折してしまいました。
実際に大学病院に私が入院した時は、大学病院の各部の教授達が自分達の恩師の息子として、一高校生の私に対して、挨拶に見えられました。
教授達の歳は、亡父とほとんど変わらないのですが、20代で既に、助教授であった父に親しく師事していたそうです。
ただでさえ高校生というのは看護婦さんたちから可愛がられるのに、まして教授がお世話になった先生の息子さんということで、大学病院での入院生活は、何かと住みやすいものでした。(上げ膳、据え膳という感じでね。)

話は前後しますが、母親の再婚相手は開業医でした。
又、私の高校は、進学学校で、その為に1年生の時から既に、進学別にクラス分けがされ、医学部進学クラスが2クラスもあって当然、私もその医学部進学クラスに在籍していました。

当時は、まだまだ時代的に「男が音楽をやるなんて!」とか、「音楽なんて瓦乞食だ。」といわれていた時代です。
私が幾ら望んだとしてもピアノや楽典など、音楽を学ぶなどと言う事はまだ考えられないことでした。
本来ならこのまま医者への道を突き進んだのでしょうが、ところが高校2年から3年への段階で左の腎臓を摘出しなければならない程の大病にかかってしまいます。
これが原因で医者の道を断念しなければならない結果を生み出します。
これが原因で・・・という意味は、留年したから・・という意味だけではありません。
私の次の歳から、学校のcurriculumが全く違って、数学や物理等の教科全てが、私が一度も習った事のない単元を学ばなければなりませんでした。逆に、私達がそれまで学んで来たcurriculumが何の役にも立たなくなったのです。但し、受験では浪人生の為に、doublestandardの受験が1年、2年だけは可能でした。


と云う事になっていますが実は本来的には腎臓は摘出する必要はなかったのです。、
幾つかの医療ミスが重なって、最初の状態と違って左腎を摘出せざるを得ないような重篤な状態に追い込まれていきます。
最初のミスはインターン生の単純でお粗末なミスです。
腎臓結核であったとしたらどんな薬が効くのかの耐性検査をしなければなりません。
しかしインターン生は何も考えずにストレプトマイシンの薬を注射してしまったのです。
その為に結核菌が死滅してしまい,耐性分からないままに半年間700本を超える注射を毎日されることになります。
ストレプトマイシンが効かないからといって今度はカナマイシン、イタイイタイ薬なども毎日平均3本4本で、肩は鉄のように硬くなってしまいました。
看護婦さんが温かいタオルで肩を温めたり揉み解したり、注射針が皮膚が硬くなって通らなくなってしまうのです。
それでも早めに見切りをつけたら左の腎臓の半分を摘出するだけでまだ残りの半分を残すことが出来たはずです。
しかし医者達は効きもしない薬を打ち続けて、結果左の腎臓を全摘出と膀胱、尿道潰瘍まで病気が進み、危うく右の腎臓にも転移する寸前だったのです。

これが今だったら当然大問題になって、裁判にでもなったのでしょうが、当時は情報の開示と言う事はなく、この事実を知っているということも養父が同じ大学出身の医者同士であったということで私達がその事実を知っていると言う事です。
医者の誤診や治療ミスは社会の問題にもならなかったばかりでなく、当時大学が気にしていたのは「国保の家族」と「学乙」ということで保険が120%ぐらい出てしまい、その20%は本来は私がもらえるのですが、学乙なので出資者は大学ということになり、その20%は大学が出さなければならないということで、その金を大学に寄付してくれないかという、つまり金のことだけでした。

学乙という保険については、苦い思い出があります。
学乙という保険は学校の保険なので、その分学校に貢献しなければならないのだそうです。つまり、死んだら、検体になるのを承知したりです。
私も、入院して半年目に講義に出るように言われました。腎臓病患者のサンプルとしてです。
高校生の私としては、人前に晒されるのは、堪らないので、断ってくれるように、親に頼みました。
そこで、養父は「お前の保証人は私の大学の先生がなっているのだ。先生の顔を潰す気か!」と怒られて、しまいました。
それを聞いた私は、大学病院を寝巻き(当時はパジャマのような寝巻きはまだありません。まだ和服の寝巻きです。)のままで、スリッパのままで、(着替えもお金も持っていなかったので)そのまま、大学病院の裏門から、自宅のアパートに向かって一人でトボトボと歩いて帰っていました。
大学病院と一人暮らしの県営アパートは歩いても、小一時間はかかりません。結構、近い距離です。
その時の私は、はっきりと「死んでもいいや!」という気持ちでした。
母親は、ただならぬ気を察して、車で飛んできました。
大学病院からアパートへ向かう途中の道で会って、大学病院に連れ戻されました。
大学の担当の先生が飛んできて、「嫌だったら、言ってくれれば良かったのに・・!」としきりに謝っていました。
養父は照れ臭そうにはしていましたが、とうとう弁解の一言はありませんでした。

母親と養父との交際は本当は私が小学生の時までさかのぼります。
母親はABCCの仕事をしていたので、多分そこで村の診療所に勤めていた養父と知り合ったのでしょう。
いつ何処からか良く知りませんが、気がついたら私達兄弟は、もう一人暮らしでした。
中学生1年生の時には、母はもうほとんど家に帰ってこなくて、県営のアパートで兄貴と二人暮らしのはずでしたが、その頃から、兄貴が何処でどう生活をしていたのか、中学の3年間や、高校の1年間を含めて、私が兄貴と一緒に同居をした、或いは生活した覚えは全くありません。

高校1年の頃は、もう既に、私は本当に一人暮らしをしていました。
母親の再婚のための先方の親の出した最低の条件は「兄貴も私も連れ子だから、兄貴は大学まで出してあげるけど、弟は高卒で働きに出ること。」ということでした。

それで「可愛そうだ」と思ったのか、母親の旦那として私に出した条件は、折衷案として「自分の診療所(病院)を継いでくれるんだったら大学の入学金や学費生活費を出してやる。」、と言う条件を出してくれました。

もし頭が悪くて(成績が悪くて)入学できる医学大学がなければ、裏金だって出してくれると言う好条件でした。
高校生の男の子なんて所詮社会の荒波は知らないし、夢ばかり追い求めるものだから、このような好意的な申し出を、ことごとく撥ね付けて、自分の夢である音楽を追求することにしたのです。

当然全ての経済援助は打ち切られて、漫画チックな・・・「一度も父親をもったことのない子供と一度も息子を持ったことのない父親の話」・・・などと言う面白そうなお話は、全く始まらないで、赤の他人としての生活が始まっていきます。

面白そうなお話が全くないのは当たり前で、受験までの1年〜2年間はアパートに一人暮らしで、1日に1回か2回は病院から見習いの看護婦が(といっても中卒だから同じ歳か一つ二つ下ですが)病院から食事を運んできて、暖めると、前の置いてある食べ残しを持って帰るだけです。

高校生の一人暮らしについてですが、私の高校は今と違って、当時は超有名な進学校でしたから、越境入学の生徒が大半で一人暮らし(下宿)は当たり前でしたので、別になんとも感じませんでした。
というか一人暮らしが当たり前という感じでした。

しかし、だからと言って、ハッピーな日常を過ごしていたというわけではありません。
友人もなくもちろん昔のことですから恋人もなく(男女交際なんてとんでもないという校風の学校とそういった時代です。)ただひたすら音楽に向かうという生活でした。

勿論音楽以外には本を読んだり(ドイツ文学や仏教ニーチェやサルトルなどに熱中したのは中学時代からかな。ロマン・ロランや手当たり次第に読み漁ったという感じです。
今みたいにTVもなくVTRやカセットテープすらない時代だったからね。)そういった意味では情報の選択の出来ないままに一方的に情報が飛び込んでくる今日の方が子供達は可哀想かな?


腎臓結核という、とてつもない病気に罹っていることは随分前から自分でも自覚があって、その病状に対しても、ある程度の事は分かっていました。
当時は結核はまだ死病であり、大学病院にも結核病棟というのがあって、隔離病棟になっていました。
腎臓結核という病名が分からなかったとしても、血尿や体調で重篤な病気である事は充分に分かっていたのに、それを合えて親に言わなかったのは、親に対してのあてつけ(腹いせ)のような感情でしたかね。

病気は2年の夏休みの終わり頃から少しずつ進行していきました。
病状は結構重く、血尿なども、ほとんど真っ赤な鮮血とどす黒い血糊のようなものが、尿に混じっていました。
偶然、半年振りぐらいに、アパートへ洗濯物を取りに来た母が、パンツについている血に気がついてあわてて私を大学病院へ連れて行き、その場で、緊急入院となったのです。

入院の2日後、には昏睡状態になって再び気がついたのは1週間たった後でした。
お袋が洗濯物を取りに来るという口実でアパートを訪れるのが、後1日、2日後だったとしたら、誰にも知られることなく、そのままアパートの一室で命を落としていた事でしょう。
ほんの1日、2日差の偶然の悪戯でした。

但し、腎臓結核という病気自体が重篤な病気であったとしても、且つ又、医療がこんにちのように進んでいない昔々のことであったとしても、大学病院ともなると、それなりに結構、適正な処置が出来たはずです。
本来ならば二、三ヶ月の入院で・・・、・・今日では一月ぐらいで、完治退院出来たはずの病気ですが、度重なる医療ミスによって、この病気は完治する事なく、何年越しの付き合いになってしまった事は先ほどお話しました。

しかし、本当は、それは自分で病を呼び込んだ、ある意味、ケェルケゴール曰くの、死に至る病の、自然な自殺なのですよ。

勿論、自然な自殺に至るまでの、それまでにも、何度か自殺をしようと思った事があります。
或ときには、Mozartのレクイエムをレコードで聴きながら、ガス栓を開いた事もあります。
しかし、そういう時に限って、不思議な事に、学校の友達が訪れて来るのですよね。

私は今も昔も、人付き合いの良い人間ではありません。
友人もなく、学校でも、自宅でも孤独な人間なのです。

しかし、その私に、2度も、3度も、自殺をしようとすると、必ず誰かが遊びに来るのです。
「お〜い!酒持ってきたぞ!飲もうや!」「ガス臭いぞ!気〜つけや!」そして、何を話すわけでもなく、レコードを聴いて、黙々と、ただ、酒を飲み交わす。

そして、最終的には、昏睡状態になる1日、2日前に、本当に珍しく、母親が訪ねて来るという偶然です・・・!!

大学病院で、多くの人達が死んで逝くのを目の当たりに見て、また、同じ年頃の高校生の少女が、1回、2回言葉を交わしただけなのに、次の日には、居なくなってベッドが空になっているのを見て人生の儚さ、命の脆さ、を身に沁みて感じて、そこで本当に「私は生かされているのだ」、とつくづく感じました。
神ではない、何かが私に、「お前はやる事があるだろう。それまでは、死ぬ事は許さん!」と叱咤しているように思えてきました。
大学病院で私は本当の命の大切さを学んだように思います。



手術とその後

当時の長崎大学病院

私が大学病院で診察を受けた時に、インターンの医師が、すぐにストレプトマイシンの注射をしてしまいました。
という事で、結核菌が死んでしまったために、耐性菌の検査が出来なくなってしまった状態で、効くか効かないかが分からないままに無駄に薬を打ち続けてしまったというお話は既にしました。

それに学乙という保険の性もあって、(私の場合には、原爆と国保だけで100%の治療が出来ます。
しかし、学乙を使うと、120%の保険になるので、使えば使うほど大学は儲かる事になります。という事で・・)新薬のテストも兼ねた化学療法によって治療され続けたために、それまでの本来の左腎臓の一部から、左腎臓全体だけでなく、膀胱から尿道、危うく右の腎臓までも転移しかけてしまったのです。

直ぐにその場で、手術をすれば左腎の3分の1だけ摘出すればよかった腎臓が、効きもしない新薬のテストを兼ねた科学療法によって左腎臓摘出という大変な大手術になったばかりか、その後も、転移した潰瘍からの出血が止まらず、その後の高校時代の2年間はおろか、音楽大学に入学した後も、延々と2年生,3年生になっても、いや、大学を卒業した後の10年近くも、尿道や膀胱のあちらこちらに転移した結核性の潰瘍を取り除くために、膀胱鏡と電気メスによる炎症(潰瘍)を焼くという手術を何十回もしなければなりませんでした。

耐性菌のテストをしないで、薬を注射したという、それだけのミスではなく、手術自体にも、幾つかのミスが重なりました。

その一番は、麻酔係が処方の量を間違えたために、手術中に麻酔がかかりすぎて、12時間近くも麻酔が覚めない・・・という不足の事態が起こりました。

そのために大慌てで、急激に麻酔を覚ましたために、本来的には、麻酔が醒めても効き続けなければならない基礎麻酔さえ醒めてしまい、 術後の2日間は信じられない痛みに耐えなければならなかったのです。

「死んだ方がよっぽどましだ!」
状況を把握している看護婦さん達も、徹夜で背中や腰に手を入れてくれたり献身的に介護してくれました。
本来的には手術が終わって病室に戻っても基礎麻酔という全体的な麻酔はかかっていなければなりません。
それによって患者は術後の痛みに耐えることが出来るのです。

しかし、麻酔係の量の失敗と、無理矢理に覚まそうとした、ダブル・パンチで、手術後の痛みを抑えるための麻酔がいくら打っても、全く効かなくなってしまったのです。

その痛みは想像を絶するものでした。痛みで死んでしまうのではないか?・・いや、死んでしまった方が、よっぽど楽なのではないか・・??という痛みでした。


(退院後、高校に復学しての写真)

でも、実はその失敗はそれだけに留まりませんでした。
麻酔の失敗は、その時の死ぬ程の痛みだけではなく、その後、繰り返された、電気メスによる潰瘍を焼き切る手術の時に、「その麻酔が全く効かない」という副作用を生み出してしまいました。

その後、殆ど毎年、長崎に里帰りする度に、大学病院で、それこそ、10回以上も、電気メスによる潰瘍の出血部分を塞ぐ手術を繰り返したのですが、その時は既に、麻酔はほとんど効かなくなってしまっていました。

「痛みに耐える」という性格が身についたのはそういったことからでした。

本当に医者に言わなければならない痛みなのか、我が儘の堪えなければならない傷みなのか、自分では分からなくなってしまって、よく医者から「辛抱しないで、我慢しないで、自分からちゃんと言ってください!」と怒られるようになってしまいました。

手術が終わった後で、主治医から(本人は励ますつもりで言ったのでしょうけれど・・)「腎臓、片方でも30歳まででも元気に生きている人もいるんだから、大丈夫だよ。」と言われたのは、幾ら高校生の私でも、結構ショックでした。
「えっ!僕の余命は30歳なの?」
いまだと、ドクハラの言葉ですよね。
でも、当時はドクハラなんて、言葉自体がなかったのですよ。


40年後の心臓の手術の話になりますが、
(余命については、今回の心臓の手術についても、練馬の私立の大学の担当の医師から、全く同じ事を言われました。
つまり「バイパスの手術の場合には、静脈の場合耐久年数があって、もって15年、持たなくて5年ぐらいです。
持たなくなったときには2度目のバイパス手術はありません。
貴方は60歳だから持ったとしたら、75歳までは大丈夫ですね。」
びっくりした私は、あわてて切り返して「ということは、平均寿命までは生きれない、持たない、ということなのですね。」
しかし、若い30歳に成り立てぐらいの先生は「えっ〜??60歳を超えてもまだ生きていたいの?」と云う様な顔をして、後こう言いました。
「手術が成功と言えるかどうかは、手術後一年生存したかどうかによるのですよ。
5年、10年のデータなんてものは大学病院では保管していないし、はっきり言ってそんなデータは医学界には無いのですよ。」

その一言を聞いて、私はその大学で手術をするのをやめて、セカンド・オピニヨンを準備することを決心しました。
30歳そこそこの医者では、人の命の大切さは理解できないようなのでね。

大学病院の欠点ともいえるのでしょうか?
若い先生達の大学病院での手術の実績経験の少なさの問題があります。
年間に大学病院でどれ位、心臓の手術が行われているのかを質問して、あまりの実績の無さに驚いてしましました。
技術も未熟で心も若い。
自分の命を任せるには、とても怖い。
高校以来忘れていた大学病院に対しての不信感がまたぞろ、ぶり返してきました。

しかし、セカンド・オピニヨンで別の私立の病院に行くことになりましたが、私は10月24日の誕生日が来ないと60歳にはならないのにかかわらず、最初のN大学病院もセカンド・オピニヨンのY病院も、お互いのやり取りの書類や、私に説明しているそのときにも、「貴方はもう60歳なのだから!」と言い続けて、私が「いや、60歳まではあと3ヶ月です。」とか「2ヶ月です。」とかいい続けましたが、決して直そうとはしませんでした。

それは医者の潜在意識の現われだと思います。


手術後
高校時代1年生の頃近所の公園で

話を高校時代に戻して、結果オーライか、どうかは知りませんが近親縁者も含めて、腎臓摘出の手術後は、私を医者にすることは皆あきらめたようで、結果として音楽の勉強をすることが出来るようになりました。
・・・と言うより諦めざるをえなかったわけです。
医者になるのは体力的にも大変だからという理由です。

音楽だったら大変じゃないとでも思っているのかねえ。
アハッ、ハッ、ハッ!

しかし、親や学校の先生達を含めて、一般的には音楽の世界(受験環境)は全く理解不能な分野だし、それにもまして、女性が教養としてお茶やお花と同様のお稽古事としてならばと兎も角も、男性が職業として音楽を勉強するなどという事は、当時は地方では、まだ瓦乞食の時代ですからね。

いずれにしても養父の考えは「医者になって、自分の病院を継ぐという事なら、経済的面倒は全て見るけど、音楽などのくだらない事をやるんだったら一切援助はしない」「一人で勝手にやれ!」 ということでした。

そのことは私が病気した後で、医学部に進むことが体力的に無理になってしまった後でも変わりませんでした。
まあ、それは実際には血が繋がっていない養父としては、当然だろうけどね。

しかし、当時の若い私にとって(夢ばかり追っているにもかかわらず)経済的なことは、自分にとって、人が思うほど、そんな大変な問題ではありませんでした。
金がなければ食わなければ良いのですから。

音大時代もミュンヒェン時代も金がなくてその日の食べるものが買えないということはざらでしたよ。
・・・と言うか、お金が振り込まれるまでの一週間、丸まる、食い物が全く無いという事もざらでした。
だからと言っても、絶望感や悲壮感に襲われた事は一度もありません。
それが、辛いと感じた事は一度も無かったのですよ。

勉強するものがそこにある。それだけで充分でした。
お金がない。
食べ物がない。
それは、鼻の上の米粒程も気にならないものでした。

当時の心境を語ったエッセイがあります。

机の上の1マルクと90ペニッヒ(当時は私は1マルク=100円と換算していました。)のお金がありました。本当にそれだけしか無かったのです。

本当は1ドルが360円の時代なので、1マルクは70円ぐらいになります。
でもそれでは、物を買ったりする時に咄嗟の判断が出来ないからです。
その1マルクと90ペニッヒで、パンを買うか、タバコを買うか、電車代には不足だし、後、一週間は食いつながなくてはならない。
・・・云々と徒然(だらだらと??)と書いているエッセイです。
・・・で結局、タバコを買ったのですよ。
・・・・そんなもんですよ。人生なんて・・・!!

人間は、人が心配するほど、飢え死にはしないものなのですよ。
人は水さえあれば、2,3週間は生き延びる事が出来るのです。

ブラームスがお金がなくて困ってるという話を聞きつけたクララがブラームスにお金を送ったらブラームスが「金がないから純粋に思索にふけっていられるのに!」と怒っていた、という話を笑い話で思い出したりしていました。

同級生の映画「命」の主人公になった東京キッド・ブラザーズの主幹の東由多加や峰のぼる(峯君は一年下なんだけど、病気で私が一級落第したから、後輩の峯君とも同級生になります。)達も劇団旗揚げの前は大変な苦労をして、「芦塚さん、本当に苦労したんだよ。パンの耳が捨ててあるのを拾って水をつけて食べて、半年間演劇学校に通ってね。」こういった話は道を目指すものにとっては珍しいことではありません。
ちゅうか、これが芸事に進む人達の普通なのよね!
普通!!・・・・

「飢え」、という事だけに絞って言うと、私達の子供時代には、その日のコメがなくて、ご飯の代わりに、カボチャが4分の1欠片入っていた事もざらでした。雑炊やお粥だって、こんにちのように、食べ過ぎたから、雑炊にするという事ではなく、コメが足りないから、お粥や雑炊で量を増やしたりしていた子供時代を過ごして来たのです。
一週間ぐらい食べ物がなくても、どうって事はないのですよ。
経験がない人達は、食料がなくなるという事は怖いみたいね。
トイレットペーパーの時も、ガソリンの時も、気にもしないで、放っておいたらいつの間にか、元に戻っていたしね。

確かに、生活をする事に目標が無ければ、食料がないとか、お金がないとかいうのは怖いかもしれない。
しかし、目標のある人達は、そういった恐怖心よりも、自分の夢に向かっていけることの喜びの方が勝っているから、恐ろしくはないのですよ。


話を再び闘病記に戻して、
後で聞いた話ではありますが、音楽大学受験に関しては、本来なら大学入試は身体検査で落ちる羽目になっていたそうです。
しかしながら、(どう言うわけか)大学側は、私は大学の教授や理事の先生方とは一面識もないのに、(大学とは縁もコネもないのにもかかわらず、) 学校の校医の反対を押し切って、強烈にゴリ押しをして入学させてしまったそうです。

と言うわけで、入学後の話ですが、私の東京での保証人であった叔父が大学の専属の医者に呼び出されて、「大学在学中に私の体に何があっても責任は大学にはいっさい問わない」 という一筆を書かされて、めでたく入学することが出来ました。
これも本当は、臍を曲げた校医が、入学を「医者の立場から絶対に許さない。」とか、言っていたのですが、私との面談のなかで、本当は私が音楽大学ではなく、医学部を受ける事になっていたとか、私の父親が長崎大学で助教授をしていて、26歳で博士号を取ったとかいう雑談をしていたら、「戦前の話だろう!それはすごい!」と、好意的になってくれて、大学時代も何かと気をかけてくれるようになりました。

確かに当時は、本当に冗談じゃなく、音楽大学入学当初の頃は病み上がりで、体力も全く無く、大学の一階から四階まで、一息に階段を上っていく事が出来ず、踊り場のベンチで、何度も休み休みしながら、4階まであがっていくのがやっとでした。

しかし束の間の夢にしか過ぎませんでしたが、憧れの音楽大学に入れた喜びは何にも増して私を有頂天にさせたものでした。

そんな夢も、ほんの1,2ヶ月で音楽大学という現実、音楽大学の延長線上には、音楽のプロの世界はないという事を知るにあたって、それまで抱いていた、音楽大学を卒業して、留学して、プロになるという従来の音楽の勉強のスタイルに、すっかり冷めてしまって、現実の生活に戻って、腎臓結核の後遺症である尿道潰瘍や膀胱潰の手術を、音楽大学在学中も、夏休み、冬休みに帰省するたびに、電気メスによる患部の焼却という、痛い痛い治療を受けなければなりませんでした。

勿論麻酔は患部の局部麻酔のみで、膀胱鏡を挿入しての電気メスの治療ですがその肝心要の麻酔が全く効かないために、電気で焼ききる瞬間の痛みは結構な素晴しいものでした。

「先生、痛いよ!」
「あっ、そう?痛い?思いっきり叫んでいいよ!」
「膀胱鏡の歌でも作れば?」
手術場付きの看護婦さんも、笑い転げるような、そんな冗談が、私の痛み止めでした。

当時の長崎大学病院も当然、国立ですし、まして当時の泌尿器科は全国的にも有名で良い先生が集まっているという噂でした。

しかし、大学病院には別の一面も持っています。
それは医者を養成すると言う事です。
看護婦も看護学生や準看の学生達の勉強の場でもあります。

若い医者の卵(にもなっていないのかな?)の初歩的なミスや医者とは何か?という疑問すら持っていない「医者になれば女の子にもてるかもしれない。
お金持ちになれるに違いない。そんなばかげた考えで来てるのがざらなんだから。

僕の友人で心臓外科に進んだ彼も「3人は殺さないと一人前人はならないんだよ。」といっていました。
30歳代でその言葉を聴くのと、50歳代も後半でその話を聞くのでは、ずいぶん受け取り方が変わります。
ましてや、ずっと病院と手が切れる事がなかった私ですから、友人の話はけして気持ちのいいものではないし、冗談にはしたくない話です。

しかし周りに一般人のいない場所では、(医者しか居ない場所では)、そういった飲み会ではこういった言葉は極普通の冗談話しとしてされているのですよ。

怖い所ですよ。
大学は・・・・!ハッ、ハッ、ハッ!

とは言っても別に医大だけが怖いわけではありません。
音大などは、命に関わらないから、もっと怖いですよ。
若い学生達だけではなく、音大の先生達自身も、生徒を殺す事には無神経です。
というか、「所詮、才能がなかったのよね!」とか、「音楽には向いていなかったのよね!」で片付けられてしまうのですからね
でもその事についての話はここではしません。
その事については、専門家としては、幾ら話題に事欠かないとしても、立場上、私には出来ませんからね。
ふっ!ふっ!ふっ!



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