第三の選択
               行きつけの病院
        
(ホーム・ドクター)
             (循環器外来)

40代に入ってから(50歳ぐらいまで)は、肥満が酷い・・ということから、生徒父兄の方たちがとても心配してくれて色々な病院を紹介してもらって、,たいがいの大きな病院には片っ端から通いました。
生徒さんのお父さんや、音人(おとな)の会に属しておられる生徒さん自身が病院の先生というケースが結構多かったので、良い病院を進められる事が多かったのです。
しかし、本来肥満の原因であるべきはずの過食も見当たらず、コレステロール値も正常で、いろいろな検査を重ねても異常が見つからず、原因は分からずじまいで、結局の所、原因は運動不足ということで何時も片付いてしまいました。
しかし、その運動不足についても、なかなか話ても分かってもらえなかったのですが、当時の私は結構散歩好きで、中学生、高校生の時から、40代の前半になるまで毎日(毎夜)寝る前の1時間の散歩は欠かしたことがありませんでした。
生来の「散歩好き」という性格と、私の生活信条の一つには「歩けなくなった時には後の人生はない」、という考えが根底にあったからでもあります。

しかし、人生とは結構皮肉なもので、自分の生活信条を支える足腰にしわ寄せがやって来て、40代の前半から腰痛と痛風に苦しめられることになります。
痛風になると、今度は大概の友人達は私の「美食が原因だ。」と責めたてます。
しかし、私は小学生の頃から、純粋の日本食好きで、「うどん」より「蕎麦」、「肉」より「魚」で、しかも、食事の好き嫌いも全くありませんでした。
というと、周りの人達から「でも、結構好き嫌いが多いじゃない!」と怒られてしまいます。
しかし、それは好き嫌いではないのだな!!
音楽教室での合宿の時にも、生徒達にも言っているように、味の好き嫌いは認めるけれど、基本的な食材の好き嫌いは私は認めないのですよ。だから、子供達にも、「一口だけ味見をしてご覧なさい。それで、嫌いだったら食べなくってもいいよ!」と、味見をさせて、それから好き嫌いを認めるのです。でも、去年食べれなかったものが、今年は食べれるようになった。教室で好き嫌いが治った生徒は沢山います。
だから、私の好き嫌いは味の好き嫌いであって、食材の好き嫌いではないのですよ。

ということでいろいろな病院には、行くには行って、その都度、色々な検査はしたが、結局のところ何の原因も、問題も見出せないままに、いつの間にか病院に行くことすら止めてしまいました。
20年近くも前のことで肥満の原因も、過食と運動不足しか原因はなく、医者も「食わなければ痩せるんですよ!」としか言わない時代でした。

肥満には付き物の血圧も当時は全く正常で、病院に行く理由さえ見いだせないままでしたが、それでも、安心のためにホーム・ドクターのように掛かり付けの病院を決めていくようになったのは、50歳を過ぎてからです。その切っ掛けを作ったのは、突然の、非常に酷い腰痛でした。

発表会も近づいたその日は、一度完全に破産した教室の再建と無駄な教室のリストラなどで、かなり腰が痛いのをかなり無理して教室の道具の整理や引越し等の体を使った作業をしていた時の事でした。
腰痛は段々酷くなり、車の乗り降りもままならず、歩くのも杖をついてやっと歩ける状態だったのです。
自宅で寝ている時も、トイレに行くのに這っていかねばならないほどの腰痛でした。

そういった日が続いていたある日の事、突然、自宅で寝ていると全く身動きが出来なくなっていることに気がついた。
痛くて体の向きを変えることすら出来ない。
手元にあった携帯電話で教室の先生を呼び出して、電話や手続きを代行してもらって、生まれて初めて救急車を呼ぶこととなった。
このお話は別のところ(腰痛のお話の所)でお話しますので飛ばすとして、その結果知り合いの医者の紹介で、事務所のすぐ傍のS病院に入院することになります。
原因は
慢性疲労とストレスと肥満でその病院には2ヶ月近く入院することとなりました。
胃潰瘍(十二指腸潰瘍)もしっかり再発していて、その1990年に発見されたヘリコバスター・ピロリ、所謂ピロリ菌の治療をする。
(ピロリ菌はキッスでも移るって知ってた?ほんとかね?)
以降、胃や大腸を中心として血圧も上がり始めていたのでそれ以降、ホーム・ドクターとしてS病院に(2,4週間に一回の割で血圧の薬と通風の薬をもらいに)通うようになりました。

S病院に通い始めて2,3年目頃であったでしょうか、心臓に不整脈を感じて担当の先生に言うと、「心臓は一番怖いから、循環器の先生が金曜日に外来をしているからその先生に担当を代えましょう。」ということで、それからは胃ではなく、循環器の先生が私のホームドクターになりました。

S病院をホーム・ドクターの病院にしたのは、ただ単に江古田の事務所に近いから・・・という理由だけではなく、(・・・江古田の町には大きな病院が2ヶ所あるのだが)、もう一箇所の病院には、色々と問題があったからだ。
その一つは、私がドイツから帰ってきて、再び江古田に住み始めた頃、大学時代に受験生として、指導した事のある弟子の一人と偶然道でぱったりと再会しました。
彼女は夜になると熱が上がって、下腹も水太りのように膨れているのに(半年以上も前からN病院で診てもらっているのにいるのに関わらず、「風邪じゃないの」とか下腹に関しては「妊娠じゃないの。」とか言われて、彼女なりに、頭にきていたのです。
私の拙い素人目の判断にしても、「肋膜の末期の症状かな・・・?」と思って、私は危機を感じて、直ぐに池袋駅に行って、彼女の実家までの汽車の切符を買ってきて、彼女の借家も衣装もそのままで、ブライダルの仕事は私が彼女の代わりに引き継いで、実家に帰るために汽車に乗せました。
ところが状況は私が思っていたよりももっと深刻だったようで、彼女は汽車の中で倒れてしまって、汽車から直接、救急車で病院に直行になったのです。
もし、彼女が、私に出会うのが一日遅れたら・・・、そして、この出不精な私が、わざわざ彼女のために、池袋まで実家に帰省するための切符を買いに行かなかったら・・・、そして、滅多に人のアドバイスを聞こうとしない彼女が、その時だけは素直に私の言う事をちゃんと聞いて、その日のうちに汽車に乗らなかったら、・・・・彼女の命はそこで、なかったそうです。

その病院の苦い思い出は、私にもあります。
昔々、私が音楽大学の学生だった時代に、咳と熱がひどくてどうしようも無くって、深夜にその病院に薬を貰いに保険証を片手に行った事があります。
若い先生が出てきて「救急車じゃなければ急患とは言えないので、次の日に来て外来に並んでくれ。」というのです。
だから、私は、救急車を呼ぶにも、当時は携帯電話など無い頃の話しだし、「救急車を呼ぶより、家が近くなのだから直接来たほうが早いのだ」 と幾ら言っても取り合あってくれませんでした。彼にとっては、自分一人で、介添えもなく、歩いてくる人は急患ではないのだそうな。
「私は学生で、一人暮らしだから、誰も面倒を見てくれる人はいないのだから・・・。電話もないので、救急車を呼ぶ事も出来ないし!!」と幾ら言っても、「自分で歩けるのだから、急患ではない!次のに来い!」というばかりで、結局、痛み止めや咳止め一つ出すこともなかった。

当時はまだ、コンビにすらなかった時代なので、結局自分が持っていた常備薬の痛み止めを潰して、お湯で溶いて即席の麻酔薬を作って、それで喉をうがいして何とかその晩を凌ぎました。
他の知り合いの医者仲間にその病院の話をすると、私の経験したそんな話は序の口で、極々普通の当たり前の話で、次から次へとその病院の悪口が出てくるは・・、出てくるは!!
それも全部、怖い話ばかりで、「その病院に行くと100%確実に病気が酷く悪くなって帰ってくる・・・、というのは運の良い方で、運が悪ければ、死体となって帰ってくるよ!」という話でした。

そう言った恐ろしい話もあって、というか、知り合いの病院の先生の紹介で、仕方なくN病院でなくS病院にしたのだが、特に何処かの病院の先生に心臓の事注意しろとか言われたわけでもなく、その10年も前から、或いはそれ以上前から、自分自身でも、動脈硬化や心筋梗塞、脳溢血等の血液の病気に対しては注意をしていました。
その頃、流行りだした血液をさらさらにする事対しては、かなり気にかけていて、そういった効能のある漢方薬や食事療法を常日頃から心がけていました。

食事や散歩に加えて、漢方薬による血液さらさらと体質改善を図る、という万全の構えを見せていたその頃の話なのです。
何故、そこまでの・・・??と、思われるかもしれませんが、それは祖父や祖母が脳梗塞や心臓で亡くなっていたからです。
そう言った理由もあって、私の父方の家は薄味で魚野菜系の食事がメインでした。
母方はどちらかといえば肉食系かもしれませんが。
でも、どちらの家系も女性は長生きの家系です。

尾骨が痛くなって全く椅子にも座れなくなってしまって(多分S病院での大腸の検診の時に傷つけられたものだと思うが、S病院では大腸カメラを全身麻酔でするので仮に尾骨に傷がついたとしても本人には分かりません。)そのために、ペインで有名な五反田の病院に一年ほど通ったのですが、その時もやはり医者は、尾骨の治療よりも、まず肥満を気にして、肥満についてはかなり詳しく検査しました。


その結果は(医者の期待を裏切って)検査結果はことごとく良好で、女医さんは「最初見たときは、日常の食生活が相当に荒れていて、これはかなり厳しく生活改善をさせないと駄目だと思ったんだけど、それだけ気をつけているんだったら絶対これから(!)痩せて来ると思うよ。」といっていましたが・・・。
それが全然全く痩せないんだってバ!さ〜ぁ!!

半年間に渡って、肝心の尾骨の痛みは、何度も挑戦したにかかわらず、上手く患部に当てることが出来ず、若い女医さんではなく本の著者でもある有名な先生自らも注射に挑戦したのですがどうも尾骨が変に曲がっているらしくて、当たりませんでした。
これ以上通っても状況は改善しないというお墨付きを頂いて、五反田参りは終わりにしました。(なりました???)
結局1〜2年後に、痛みは自然に消滅していきました。
そんなもんかね??

     心筋梗塞
       病院を尋ねて


循環器の先生に診て貰うようになってしばらくした頃です。
03年11月24日
ハイツ(自宅)に戻る途中で、エレベーターに乗っていたら、途中から乗ってきたおばあさん〜「ご病気ですか?」といわれた。「心臓が少し」と言ったら「大変ですね。」と言われてしまった。今日はマッサージの女の子に揉まれた痕が痛み出して、歩けなくなってしまった。

05年4月
心臓に不整脈を強く感じる様になったのは1年半も前の頃からでした。だから24時間のポータブルの心電計(?)をつけたまま生活してみたり、いろいろ病院の先生にお願いしてやってみたのですが、心電計をつけているときには出ないんですよね。不思議なことに!

昨年(04年)の8月ごろには両足が指先から踝まで小豆色というよりむしろどす黒に近い色になって左足の踵と土踏まずの間が歩くたびに飛び上がるように痛くなってしまいました。足はまるで(見た目では)糖尿病の壊死した足を思わせるのですが、血液検査では血糖値もそのほかも異常な値は出てきません。
これ以上病院に頼ってもしょうがないので、足の裏に薬の入ったシートを貼って毒出しをする民間療法や、コエンザイムQ10などの薬で直接病気とは関係がないということが分かっていたとしても、私にとっては体質改善を図るしか問題の解決を図る方法はありませんでした。
一見気休めとも取れる解決法でしたが、それでも少しは痛みが止まったり、見るもおぞましい足の色の改善にはなりました。

05年4月20日
不整脈が20分以上続いた。2,3分で胸の圧迫感は取れたのだが完全に元に戻ったわけではない。安静のために「コンピューターの作業」をする。

S医院で負荷心電図の結果、4月にほんの少し心筋梗塞の症状が出たときも、多分偶然検査に引っかかっただけかもしれません。
S病院の先生も、私自身も大学病院でカテーテル検査をすると言う事は軽いことと考えていました。
「まあ、検査入院で、最悪の場合でも、ステント治療で3日位の入院かな。」
私も、S病院の先生もN大学病院の先生方もそう考えていました。
ということで、いよいよステントの用意をしたカテーテル検査が行われました。

結果は信じられないほど最悪で、3本ある冠動脈の中で五箇所詰まっていたそうで、内、二本までは完全に詰まっていて、残りの一本もかろうじて血が通っているに過ぎず、よくこの3,4年の間に心臓が止まらなかったのが不思議なぐらいだ、という結果でした。
当然、ステントの治療も急遽中止となってしまい、治療方針の見直しということで、入院も強制入院に変りました。
7階の病棟内だけが歩行可の範囲で、無線の心電図を一日中つけたままで、その無線の届く範囲が歩ける距離だったのです。と言う訳で1階の売店にお茶を買に行く事さえ禁止されてしまいました。
この段階でバイパス手術を進められたのですが、その医者からの話ははなはだ不愉快なものでした。
心臓を止めて人工心肺装置で手術をするのですが、心臓を止めておく時間に限界があるので、上手くいったとして2本、実際には多分一番大切な(それが詰まると死んでしまう)冠動脈一本だけ助けることになるだろうということでした。
バイパスに使う血管は動脈一本と後は静脈ですが、バイパス手術は一回しか出来ないこと。静脈の耐久年数は5年から15年ぐらいであること。手術の成功とは一年以上生存した場合には成功となる。等々の説明を受けた。癌などの場合においても、生存率とは手術から5年間生きた場合を言う、ということでした。
5年と言う数字は大学病院がカルテを保存することを義務付けられている年数であり、それ以上の生存率に関しては統計が無いと言う事と、ステント自体が最先端の新しい手術で日本では20年ほどしかまだたっていない、と言う事でその実績はバイパス手術ほどにはなっていない、ということでした。
それに対してバイパス手術は、日本では初めてのバイパス手術が昭和47年に行われて、成功した例があるそうです。
が、しかし、その病院で行われている心臓のバイパス手術自体は、年間わずか数例しかならないそうで、若い医者たちにとっては手術で執刀する事はおろか、立ち会う事もまれなようです。

そう言った説明を受けて、「・・・と言う事は最高に長生きしたとしても、私は今59歳なので74歳までしか生きられないと言う事ですか?」「平均寿命まで生きられないと言う事ですね。」というと、30歳ぐらいの若い先生達なので、「えっ!もっと生きたいの?」という顔をして困っていた。
後でもう少し歳食った先生がやって来て、「その段階になったらその段階でステントでもやればよいのですよ。」と改めて、説明を受けたが、そのステントさえ確率的にはあまり良い結果は期待できないとのことで、もうその段階では、この大学病院の先生方の、患者に対しての考え方について「患者ひとりひとりの生命に関して、どう思っているのか」と言う事について、すっかり懐疑的にならざるを得ませんでした。
と言う事でその病院に対しての信用・信頼をすっかり失くしてしまいましたが、とりあえずは何とか生きて病院を出なければならず、「出来ればステントでお願いします。」という私のたっての頼みで心臓カテーテルがもう一度行われることになりましたが、結果は詰まったところが完全に石灰化していて、ドリルが歯が立たなくって失敗に終わりました。

という分けで、この病院では、バイパス手術しか方法がなくなりました。バイパス手術は心臓外科の領域なので、循環器から心臓外科に移ることになります。
心臓外科の手術は一ヶ月後の8月2日に決定しました。
というわけで1月間、手術を待って日にちが空いてしまうことになったので、自宅待機と云う事になって、手術直前の7月25日に再入院と云う事に決まりました。病院ないではなく、病棟から一歩も出る事が出来ないように、絶対安静を言われていた私が、自宅待機です。笑っちゃうよね??!!


セカンド・オピニヨン
これは、何か別の選択肢はないのかな?と色々と画策したいと思っている私にとっては逆に何かと好都合だったのですが、セカンド・オピニヨンに行って、その別の病院の先生方にその話をすると「えっ!絶対安静の人が、他の科に変わったとたんに自宅待機ですか?」と言って、絶句して、呆れたり、笑い転げていました。「自分の所の科でなければ、死んでも関係ないんですかね?」

先ほども言ったように、自宅待機は私にとっては好都合で、ネットを使って私の教室の先生方が探してくれた、ステントの達人といわれる先生と、心臓の手術の達人といわれる人にセカンドオピニヨンをお願いしました。
勿論、一般では今はセカンド・オピニヨンなんて当たり前だよと思われがちなのですが、実際にはセカンドオピニヨンを受診するのための診断書を貰ったり、カテーテルの検査のCDなどをその大学病院から貰うのには、一波乱も二波乱もありました。
「何処で手術をしても同じだよ。」とか「今の状態ではどの先生に見てもらっても同じ事しか言われないよ。」とか、「診断書が出るまでには早くて10日、それ以上かかるかもしれませんよ。」とか、病院の先生にも、事務方にも、これ見よがしに嫌な顔をされました。
しかし、自分の命に関わることですから、嫌な顔をされたからといって曲げるわけには行きません。
それに、この大学病院のパンフレットにも、「セカンドオピニオンを推奨する」と言う事が書いてあるのです。
それなのに、それなのに・・・パンフレットと現実は違っていて、あからさまに嫌な顔をするのですよ。
ところで、実際に事務方から診断書等のファイルが出たのは4日も掛かりませんでした。
それと、診断書を出した段階で、「再入院の予定と手術の予定を取り消してくれ」「今直ぐに、退院の手続きをしてくれ。」との病院側から言われたので、その場でN病院の再入院や、診察は取り消しました。
つまり、「何があっても、二度とこの病院には戻ってくるな!」と言うあからさまな、言動だったのです。

最初、ステントの名医として有名な千葉西総合の先生の所へ診断書を送ることになりましたが、緊急性ということから、先生のお忙しい中の時間を割いていただいて、診断書がその病院に到着したその日の夜の10時過ぎに先生から直に電話があり、「CDを見た結果、ステントはやって出来ないことはないけど、進められない(リスクが大きい)。自分の家族だったら、バイパス手術を勧める。」ということと、「あなたは心臓が強いのでバイパスの手術のリスクも他の人に比べて少ない。」ということを、暖かく落ち着いたアドバイスを戴く事が出来ました。おかげで、少しは心臓を切り開くという恐怖に打ち勝つ事が出来るようになりました。


05年7月16日(兄貴へのメール)
C総合病院のK先生から今さっき電話がありやはりステントは難しいそうです。
(左の動脈はステントでも問題がないらしいのですが、右側の成功率が低いのと、前回、N大病院でいじっているので、ステントをやってから次のステントまで日にちを置かねばならないということ、(後、2週間程度だそうですがその間心臓が止まらないという保証はないと云う事と)ステントの場合、後へ走っている冠動脈は捨てるそうで(2本だけ生かすという事らしい。)右の方の冠動脈は大切らしいのだけど、ステントの手術は何回か分けてやらなければならないので、僕の場合は腎臓が1個しかなく、何回にも分けてやるとなると造影剤によって腎臓が悪くなるリスクが高い。その腎臓が機能不全を起こす可能性がある。ということで、やってやれないことはないけどお勧めはしないとの事です

05年7月24日(友人へのメール)
地震お見舞いありがとうございます。
地震は別に何事もなく千葉の方も問題はありませんでした。
心臓の方は、3年も4年も病院に通っていたに拘わらず、このていたらくです。
同じN大からの先生としての無責任さに腹が立つ限りです。何で3本とも詰まってしまうまで心筋梗塞が分からないのだ!理解に苦しむ___というかやはり馬鹿なんだよ!
セカンドオピニヨンは信頼の置けるところでやってもらいました。先生の話す言葉のトーンが全く違います。落ち着きと信頼性、結果は僕にとって一番望みたくない結果でしたが安心して聞けました。やはり冠動脈が3本とも詰まっているのでバイパス手術がベストだそうです。(2本は完全に詰まって、残りの1本も辛うじて血液が流れている状態で、もういつ詰まってしまっても、全くおかしくない状態だそうです。)
耐久年数のこともステントのリスクとは別に、僕の場合には高校時代の腎臓の摘出がネックになります。ステントを何回も繰り返すと造影剤が腎臓を壊してしまう。
何せ、腎臓が1個しかないからです。
そのリスクが普通の人に対して大きい。ということでバイパス手術にせざるを得ない結果になりました。不本意ではありますが。
勿論N大では誰が手術をするか!
又、別の病院(第3の病院)で入院手術を予定しています。(本当は第4番目の病院!)


月曜日か火曜日にステントの先生の病院に行くつもりで、バイパス手術のY病院をキャンセルして入院セットを準備したけど、ステントが可能性がなくなったので、また、バイパスの病院に手術のお願いをすることになりました。
しかし、連休で月曜日までは世間は休みだし、教室の先生たちも四日市の発表会があるので東京にいませんから、これから2日間は一人でおとなしく安静にするほかありません。


05年7月24日(友人へのメール)
ホームドクターではなく、飛び込みで診たのなら許せるのですが、医者同士での庇い合い、3年4年も診察していて分からなくって、「すみません」の一言もない。それは、自分の非を認めたことになるからね。3本とも、ということは2,3年前からそうなっていたと言う事だそうです。

せめて僕のいうことをもう少し真面目に聞いてくれたら、こんな末期になる前に病気を見つけることが出来たのに。


・・・てな事を、話しながら色々と命をかけて、病院の手配とか医者を探すとか、画策しているのに、姪っ子が「家を出て一人暮らしをしたので、保証人になって欲しい。」「お金を借りるので保証人に・・・!」とか、電話がかかってくる。
「保証人になるのも、お金を貸すのも、吝かではないのだが、パパに相談はしたのかい?了解は受けているのかい?」と聞くと、「パパは・・・・!」と、烈火の如く怒り出して、感情的になってしまった。
兄貴に電話をすると、姪っ子は、以前車を買って支払いを滞って、兄貴がその払いをしたそうで、「保証人にはならないで欲しい!」と言う事だった。
姪っ子からの電話に「パパは反対しているけれど、どうしても家を出たければ、俺と一緒に住んでもいいし、外に出るには、今は無理だから、一月ほど待ってくれないか?」と言ったら、何かの琴線に触れたらしく、烈火のごとくに怒り出して、「芦塚家の人間は皆冷たい!二度と会わない!」と言って電話を切ってしまった。
それ以降は親子親族供に、本当に断絶しているようですが。
あんたは、一月待った所で、別に死にはしないだろう??
一緒に家を探しに歩いてあげたいけれど、今それをやると、こちトラは明日まで生きれるか分からんのだよ!
部屋で一人寂しく絶対安静をしているから、「手術が終わる時まで待てないか?」と言う意味だったのだけれどね???

私が姪っ子に、「心臓の手術のために、自宅待機をしている・・」という一言を言わないのは、姪っ子は結構、スピーカーで、私は母親の家を訪れていた時には、母親の前では、よけいな心配をかけないように、好きなタバコを吸わなかったのだが、姪っ子は私が親に隠れてタバコを吸っている、と思って私の母親に告げ口をしてしまったのだよ。
「私は、もう齢も50歳過ぎだから、『親に隠れて・・・・』って、意味はないのだよ。
タバコを吸っていると、親が妙に心配するから、親の前では吸わないようにしているだけなのだよ。」
「あなたがおばあちゃんに話をばらしたから、隠れて吸う必要がなくなってしまったけれどね。」と言って、親の前で吸い始めた事もあった。
私が、心臓の事を親に言えば、年老いた母が心配をする。
無駄な心配であるかどうかは、兎も角としても、そういった余分な『心配をかけたくない』 と言う私達の気持ちを、姪っ子は、私達の「親に対しての思いやり」として捉える事が出来ないのだな。
隠れて何か画策しているとしか思わない。
だから、姪っ子に私の病気の事を知られては困るのだな、これが・・・・!!
近親縁者の事だけではなくても、内憂外患で、心臓の事で自分の心配をするよりも、教室や父兄達、周りのトラブルを収めるのが大変なのだよ。
どっかの映画で「ゆっくりと死なせてもくれない!」と主人公が嘆くシーンがあったが、将にそんな感じだなや!
どんなに鬱になっても、休ませても、引き篭もりをさせてもくれない。
まあ、それが人に必要とされている、という事かも知れないね??!

05年7月28日
明日は病院でプレシャーがひどい。寝れない。
一人、鬱々としている。

友人への手紙
次の日の朝、バイパス手術をしていただく先生に、運良く直接連絡が取れて、手術日を決めて入院日を決めるという離れ業で、(手術日が決まって、入院して初めて先生とお会いして説明を受ける)といういかにも切羽詰ったやり方で入院しました。
(ちなみに手術日はN病院と同じ8月の2日でした。ちなみついでに入院日は7月の29日。検査も大半を省略して、幾つかの重要な検査のデーターがN病院から送ってきてなかったのですが、後の状況を見れば大体想像つくからと大急ぎの手術でした。)
手術に関してはN病院とは全く違って、本当にここまで違っていいのだろうかというほど違います。
まず、手術は人工心肺装置を使わない心拍動下(心臓を動かしたまま手術する)冠動脈バイパス手術で、3本の冠動脈の5箇所の詰まった部分を避けて5本のバイパスを取り付けて3本とも生かすという理想的手術ですが5時間以上掛かってしまいます。
心臓を止めないので患者のリスクも少ないし、手術時間も人工心肺よりもキャパシティがあります。
しかも驚異的なのは輸血をしないのです。(勿論輸血の用意はするのですが、あくまで出血したときの用意であって、殆ど出血しないのです。)正にゴッド・ハンドです。手術をする医者の神業的な技術が必要となります。

手術前
05年8月1日
夕食後に手術直前の最後の主治医からの説明があった。
食事が中座したので食後服用する薬の確認をする。
看護士の説明が良く理解できなかったので、説明に確認を求めると、看護士が怒って「後は自分でしてください。」と言って帰ってしまった。
睡眠導入剤、所謂「眠薬」だが、術前の緊張を和らげ、睡眠を導入させる意味がある。
マイスリーという薬を2錠、N大の時から常用していた。夜眠れないからだ。
あまり体に合わないのか全然効かない。
ところが手術前日だと言うのに持ってきた薬がマイスリー1錠なのだ。
(勿論、事前に医師とは話してあって、マイスリーとは別の薬を処方して貰う事になっているはずなのだがね。)
「これ以上、看護師に言うと喧嘩になるかな?」とは思ったのだが、何分薬のことだからと思い直して、(でも11時頃)ナース・ステーションまで行った。
対応したのは茶髪のネーチャンだったけど、良く話を聞いてくれて、直ぐに非を認めて別の薬を出してくれた。(処方通りの薬をね。)
しかし、思い見るに、いつも看護士が「こちらの指示に従ってください。」と患者に命令するほど、看護師自身が正確に医者の指示を把握しているわけではない。
「薬が来たら、絶飲食なので本当に少量の水で飲んでください。」
と、看護士が言った。
それは、違うよ!!
明日の手術の3時間前から絶飲食、今日の夜の9時は固形の食べ物の終了だけど、私は所詮、ダイエットメニューで固形物はどっちみち、何も食べれないんだよね。
朝の薬だって9時以降が絶飲食なので薬を飲む時には水は関係ないんだよね。
食事や薬は8時までには終わってしまうンでね。
せめて手術を受ける直前の患者の事ぐらいは、良く覚えて置いて欲しいよね。

05年8月2日手術当日
教室の先生達が見送りに来てくれて、手術室に入った。
勿論、手術中は何も覚えていない。
ただ、ICUに戻ってきて、目が覚めると管を口の中に挿入されていて全く何もしゃべれないばかりか指の先すら動かないのだ。
唇がかさかさに乾いて痛くてたまらない。
「末期の水とはこれの事なんだよな。」
後ろを向いて仕事をしていた(カルテに何かを書き込んでいた)看護師が僕が目を覚ました事に気がついて僕が水を欲しがっている事に気がついて「まだ水は飲んじゃだめなんですよ。我慢しましょうね。」ときた。
高校時代に手術後に同じ状態になったときには、看護婦さんが(当時は看護婦さんといいます。)綿に水を含ませて、唇の周りを拭いてくれた。
(濡らしてくれたと言うべきか)その水のおいしかった事・・・。
死んで逝く人の、唇を濡らす末期の水というのは、きっとこれの事だよね。
たった一口の・・・、ではなく、ひとしずくの水が、乾きを癒すのだよね。やはり、これが末期の水というのだよね。
唇が乾く事のつらさったら無いよね!
「吾は、乾く・・・!」
どうして唇を濡らす事ぐらい出来ないのかね。
やっぱり、濡らしちゃぁだめなのかな?



手術後
05年8月14日(X線検査と採血)
「まだまだ大変ですね。」X線技師から、同情的に声を掛けられる。
X線は薬を飲む前に声を掛けられたので、薬を飲むのが前後してしまい、9:40分になる。
僕と病状の同じ人が前に検査に来ていて、手術後は、良くなるのではなく、逆に「日毎につらくなるよ。」と言っていた。

05年8月16日
やはり今日もAM4:00位から眠れない。
デイ・ルームに行って座っていると、いつの間にか座ったまま熟睡できる。
空調のせいか、精神的なものか?
6:30分目が覚める。
S氏が来る。おしゃべりをする。
巡回の時間を過ぎている。看護士さんが来る。
「検温、お願いします。」
例えば手術では成功例と言うのかもしれないが、手術が成功して後の余命の年数はデータとしては無い。
N大で私が「余命は5年ですか?10年ですか?」と質問して答えられなかったのはそのせいである。
医者の側と、患者の側の命に対しての考え方の違いが見受けられる。
病院の中では、患者達の一致した感想として、看護士に何か一つ頼むと一つ必ず忘れると言う。
忙しすぎるのか?
でも何かしら忘れないですむシステムは作れないのか?

心臓のバイパス手術が終わって退院する時、医師の説明があったのですが手術を担当した超売れっ子のスーパー・ドクターは忙しいので、代わりに若い先生が説明をした。
そのときに「私としては、心臓に関しては出来る限りの注意をしていたつもりなのですが、いったい私の何が悪かったのですか?何故ここまで酷い状態まで、分からなかったのですか?」と質問した。
答えは、結局の所、動脈硬化の診断は、通常は心電図やその他の検査に現れないことが多いらしいのだが、正確に判断するカテーテル検査は(その検査で命を落とす人もいるし一晩全く動けなくなるし、特に私のように腎臓が一個しかない人にとっては、一個しかない腎臓がダメージを受けると後は腎臓を透析しなければならなくなってしまう、というように)検査自体にリスクが大きすぎる。
又、診断の手助けとなる体に現れる症状は人に依ってまちまちなので、その特定の症状で、医師がカテーテル検査を進められる、と言ったような確実な症状ははないそうで、唯一つ言える事は、次に動脈硬化が起こるときには、前回に起こった症状が再現されて確実に自分でも動脈硬化であることが分かるそうな!!
何かしら、その説明では、納得いきませんがね!
心筋梗塞や脳梗塞などを引き起こす動脈硬化をより簡単に診断出来る方法や器械はまだ出来ていないのが現状で、けっして心電図や血液検査などで、問題がなかったとしても安心してはいけないというのが身を持っての結論である。
上記の文章は2005年、手術直後に書かれたものです。
2013年の今、現在は、造影剤を使用しないでも、カテーテルを用いないでも、出来る画期的なCTが出来たそうです。冠動脈の検査も手軽に日帰りで安く出来るようになったそうです。
「・・・そうです。」という意味は、私が勝手にネットで調べた結果の話であり、医者や現場の病院で、その道のプロの人から聞いた話ではないからです。

退院後
05年8月18日
今日はN病院からY子の兄貴に江古田の事務所まで車で送ってもらったのが、私に出来る全てだった。
極端な腹痛で、もう何も出来ない

05年8月19日
Sさんが言っていたように一日一日逆に調子が悪くなってくる。
今日は一日何も出来なくて一日中寝てしまった。
病院でもそういうことはなかったことなのに。



05年9月8日
リハビリのローテーションは退院日から数えます。・・と看護師のお嬢さんが言っていました。
9月の8日で3週間目になりますが、7日は退院してから始めての診察になります。
本来的には車で通院するべきなのですが、自分では運転できないし、誰か代わりに運転できる人が居ないので、電車で行かねばなりません。
しかし、歩行練習がまだなのでせめて30分だけでも歩行可能なように、5日に始めて30分歩いてみた。
足は何とも無かったのだが、いかんせん、2,3ヶ月絶対安静にして運動していなかったのだから、腰がついてきませんでした。
ぎっくり腰の症状で杖をつかなければ全く歩けなくなってしまいました。
しかし、診察は7日だ。(明後日です。)運良く一晩寝たら直った。
次の日も、ちょっとした買い物があって30分ほど歩いたら、今度は事務所で座っている間に、全く歩けなくなってしまった。
一晩寝たら直るかな?と思ったのだが、今度はそうは問屋が卸さなかった。
7日、8日と自宅に閉じこもったまま、一歩も外に出れないままの生活になってしまった。それどころか、椅子に座ることも儘ならないので自宅で出来る仕事も出来ずじまいで、ベッドの中で悶々とする毎日である。これはただのリハビリの失敗に過ぎない。リハビリは丁寧に少しずつというのが鉄則なのだが、どうしても願望が入ってしまい、これだけ出来れば少しぐらいなら飛ばしても良いだろうと思いがちである。それが逆にリハビリを遅くしてしまう結果となる。
良く分かっているんだけどね・・・・。

05年9月10日
(腰痛は部屋の中では杖なしで歩けるようになった。)

手術の痕は特に両乳の間、というか気管支との間というか、が空気が触れても痛いというほどである。
あばら骨を強引にこじ開けているのだから致し方あるまい。
何が痛いかというと、痰が出るときの咳ほど痛いものは無かろう。
本当に、風が吹いても痛いという通風の時よりも、更に痛いのだよ!
特にみぞおちの辺りが引き千切られて血が迸り出るような感じがする。
咳をすると開いたあばら骨がくっ付くのが又接がれてしまうそうなので、咳を極力しないための訓練や2ヶ月ぐらい前にアメリカか何処かで発明された咳をしたり、体を動かしたりするためのサポーターを着けたりして、この時期を乗り切る。両乳の間は空気が触れても痛いような感じだから、当然下着なんてとんでもない。
寝るときは今もお乳の所にはタオルケットなどが当たらないように、上半身裸で寝る。
空気が触れてもと云う位だから、シャワーなんぞとんでもない、
風呂に入る時ですら、お湯を少しでも揺らさないように気をつけて入らなければならない。
しかし、快方の兆しは見えない分けではない。
痛みの幅が確実に減ってきていることも事実である。
最初は両乳も含めて、乳の間が痛かったのに、少し右寄りに減っては来ている。
二ヶ月もすれば、下着を着ても痛みを感じることは無くなるのではなかろうか?という希望的な期待で毎日頑張っている。

痛みといえば、風が吹いても痛いのは胸だけではない。
不思議なことに手術の後、直ぐに右足の膝から直ぐ上の部分が痛くてズボンを穿く事も何とも儘ならなくなってしまった。
確かに左足はバイパスで使用する血管を採取するためにかなり大々的に切った。
しかし右側の足は何もしていない。
それなのに未だに痛むのだ。
ちょうど切断されて無くなってしまった足が痛むように!


05年9月14日(水)
今日はY病院の外来があり、行ってきました。
本来的には、先週の水曜日の予定でしたのですが、病院まで電車の乗り継ぎやら結構距離がかかるので、少しでも、歩けるようになるようにと、ついつい歩行練習をやりすぎてしまって、それでも、足はリハビリについて来たのですが、如何せん、腰に負担を掛け過ぎてしまって、腰痛になってしまい、病院に行くの日が先週の予定だったのが、等々今週まで、一週間も伸びてしまいました。

病院での検査は、全て問題なく良好だったのですが、帰る前に、退院の時に買った電子心電図計のdataなのですが、 この一週間の間は、病院への通院のために、3時間ぐらい電車に乗らなければならないので、その体力的なプレッシャーで、なんとなく不整脈が出ていたのを、3件ぐらいサンプルに、心電図計に保存しておいたのを、先生に見てもらった所、その内の一つのパターンが非常に良くなく、心臓が何時止まってもおかしくないので、(拍動が30近くまで落ち込んでいて、そのために拍を上げるために不整脈が出ているのだそうです。) 急遽心臓のペースメーカーを埋め込む手術を受けることになりました。
次の週の火曜日の再入院で水曜日の手術の予定です。
バイパスだけで心臓の病気とはおさらばできるかなと思っていたのですが、そうはなかなか問屋が卸さず、今日の今日でかなり落ち込んでいます。


自宅の日常生活の中で、不整脈が出ている時に、その場で図れるように、病院を退院する時に、病院の中の売店で、素人でも使える電子心電図計を買って帰りました。
かなり高かったのですが、自分では不整脈を感じているのに、ホルスターを装着して、24時間日常生活をしても、結局の所、5年間、6年間も、心電図では不整脈が見つからなかったのですからね。
6〜7万もする高価な物ですが、自分が不整脈が出ていると自覚した時にその場で、直ぐに計る事が出来るから、背に腹はかえられませんよね。
上記の写真ですが、手に収まるぐらいで、ベルトにも装着が出来る携帯用の心電図計です。
本体の中に9件ぐらいのdataをメモリー出来ます。
(・・・勿論コンピューターにdataを落とせば、もっと沢山メモリー出来ます。)

やっと、心臓の手術を終えて、退院したばかりの私にとっては、ペースメーカーの手術は、日常生活のリスクが余りにも大きくて、落ち込んでしまいました。
特に、電気(電子)機器で殆どの仕事をこなしている私にとっては、ペースメーカーは仕事上で、結構大きな、致命的なダメージになります。
という事で、私のショックが酷く、あまりにも落ち込みが酷かったので、教室の先生達が心配をしてy病院にメールをしてくれました。


05年9月22日(木)
担当の先生からペースメーカーの手術といわれたのですが、ペースメーカーは心臓外科ではなく、循環器科の領域だそうで、担当の先生が循環器の先生に変わりました。
というわけで、いきなりまず手術ではなく、まずは24時間のホルスターの心電図をして(S病院のときも何度かやった事はありますが、体に心電図の器械をぶら下げたまま一日を過ごしてみると言う検査で、)その結果でペースメーカーが必要であるかどうかの最終判断をするということになって、今日はホルスターを外しに病院までいってきました。
病院から帰って、さらに江古田で明日の発表会の打ち合わせをして、すっかり疲れきったので一人先に自宅に戻る途中で、深夜なのだけど久しぶりに朗報の電話がありました。
担当の先生が「心配しているといけないから。」と、深夜にかかわらず電話してくださいまして、ペースメーカーは必要なかったそうです。

考えられるのは血圧を下げる薬の副作用で心拍が30以下に下がったことが考えられます。
ただしもしも40日間でたった一度のことであったとしても、心臓は止まってしまったらそれっきりなので、仮にそれが1年に一回のことであったとしてもペースメーカーは必要となるそうです。

ペースメーカーとの共存は、日常の生活では結構リスクの多い生活を強いられるので、難しい選択になります。

いずれにしても今回の私の場合には、第一級身障者のリスクからは逃れることが出来ました。
ということで携帯やコンピューターも普通に使用することが出来ます。
お話してきましたように、心臓の病気に関しては心電図や血圧の薬が何の役にも立たないばかりか、医者の診断すら当てには出来ないと言う事が身をもって分かりました。
一番確実な診断を導き出す、造影剤によるカテーテルの検査が結構リスクの大きな危険な検査であることがネックになっているのです。動脈硬化や脳梗塞の危険を訴えているはずの症状は一人一人全く違うもので、相当ベテランの経験をつんだ医師であったとしても、判断がつきかねると言う事が分かりました。
逆に私のように、自分では3年も4年も前から冠動脈を疑って、医師に相談してきたのにも拘らず、検査結果が良好であったために、医師が患者の不定愁訴の訴えに耳を貸さなかった、ということもカテーテル検査のリスクを考えると、一概に医者を非難するばかりでは問題の解決には繋がらないような気がいたします。
つまり医学の進歩は目覚しいものがある様に見受けられますが、意外とまだ進歩してはいないのです。
40年以上前の大学病院でのミスは、単純な人為的ミスでした。
しかし今日のTVで、国立癌センターで取り違えて肺を3分の1摘出してしまった、ということが報道されていましたが、ほとんど毎日のように医師の倫理観を問うようなTV番組が放映されています。
40年前と今とでは何がどう変わったのかしら?
胃カメラが少し小さくなっただけなんじゃないか・・・・?そんな皮肉でも言いたくなるような気がします。
あくまでも2005年のお話です。医学の技術的な進歩は目覚しいものがあります。
そういった、難しい検査が今現在ではもっと、ローリスクで、手軽に安価に出来るようになっているようです。「・・・ようです。」という意味は、医学に対してすっかり懐疑的になって、猜疑心の塊になっているので、身を持って経験した事でないと、何も言えない・・・という風になってしまったからです。

05年11月25日
退院して4ヶ月目に入りました。
病床日誌と言うのは読み返したくもない(所詮、病気と言うものを扱う性で)マイナーな文章の羅列になってしまいます。
・・・・と言うわけで「少しでもいい事を。」と言う事でいい方に変わった事を書いておきます。
その一つは原因の分からぬままに、痛み続けた右足の膝の上の痛みが触っても大丈夫なぐらいに取れてきたことです。
多少の違和感は残っていますが、結局原因は最後まで分からずじまいでした。
二つ目は、3年ぐらい前からパンパンだった靴が一サイズ大きくなったようにブカブカになった事です。

「足が縮んだの?」 
まさか!?  むくみが取れた訳でしょう。

履いている靴が全てブカブカになったので、どうしようか悩んでいる最中です。
散歩の時など靴が脱げそうになってとても困ります。

もう一つの困った事は、教室間の移動のお話です。
千葉の教室は二つあります。
以前は、その他に、朝日ケ丘教室もありましたが、少子化の折から、閉鎖統合しました。
という分けで、今は、花園教室と京成検見川の教室の二つがあります。
その花園教室と京成検見川教室は、大人の足で12,3分ぐらいの距離にあります。以前は、私も多くの生徒を教えていたので、花園教室と検見川教室の移動にはバイクをしようしていました。
という事で、京成検見川の教室には駐車場がありません。というか、京成検見川駅の周辺には駐車場が中々ないのです。
と言う事も2005年のお話です。今(2013年)は、一つ神社側の通りにコイン駐車場が出来て、とても助かっています。
花園教室の直ぐ近くに、教室の駐車場があります。
駐車場から、直接検見川教室に向かうと、の間には神社があって、その横を通らなければいけませんが、そこはとても急な坂道です。
この2,3年は一息で登る事が出来ず、1,2度立ち止まって休憩をしなければ登りきることが出来ませんでした。
しかし、今は、非常にゆっくりですが休憩しなくとも登りきる事が出来るようになりました。
私としてはちょっと驚いた話ですが、確実に体力は回復しているようです。
2013年の今現在は、やはり、2、3度は休憩を取りながらでないと、やはりこの坂は登れません。特に、暑い夏はこの坂を登るのは無理なようです。

      
相変わらず合う人ごとに、「随分、元気そうにおなりですねぇ? 2,3年前の貴方の顔は・・・」と言われます。
どうしてそれを、その2,3年前にそれを言ってくれなかったのかな?・・・どう思いますか?

こういう風に言うと、体調もすこぶる良くなっているように思われますが、実際には相変わらず胸を開いたあたりは(特に心臓の辺りが)痛みます。
左足は膝から下があいも変わらず感覚がありません。触られると飛び上がるほど嫌な神経的な感じがします。
咳をすると飛び上がるほど(体中から血が迸り出るほど)痛いので、極力咳をしないように頑張っています。
手術が終わった後から耳鳴りがずっとしているのですが、急に血の巡りが良くなったからだろうと言う事で、そのままになっているのですが、脳のカテーテルも怖いしねえ・・!
2005年脱稿